真っ赤な嘘

夏が来れば思いだすものに「はるかな尾瀬」という歌があるが、あれは夏の尾瀬が好きな人が同じ尾瀬好きと「尾瀬の一番いい季節は?」という話で盛り上がり、相手に「春かな…尾瀬。尾瀬は春だよ…」と答えられ、結局仲たがいしてしまったのが夏の思い出がある遠井空さんの歌だとずっと思っていた。
というのは真っ赤な嘘で、私は冬が来れば思い出す浪人時代、鈍い空。このごろの東京は空を見上げれば遠く青く、浪人生だった時分も同じくらい空は青かったはずなのだけれど、その空の青さが身分不相応な気がして申し訳なく、外套に首をすぼめて下ばかり眺めて歩いていた自分はもう10年前にも関わらず、冬が来れば思い出す。
平成の遺物に両足を突っ込んでいるセンター試験の国語は「小論文―物語文―古文―漢文」という四部構成で、しばしば言われることなのだが、「物語文に正解はあるのか/ないのか」論争というのがある。この文章を書いた筆者の気持ちを当てよ、というやつだ。昔タモリ倶楽部で現役の東大生とセンター試験で自作が出題問題に取り上げられた小説家らとが、国語の問題を解き、点数を競うという企画があった。蓋を開けてみれば、東大生が全問正解、作家人はボロボロという結果であった。確か、谷川俊太郎だったと思うが、違うかもしれないが、孫の宿題に自分の詩が出て、「この時の筆者の気持ちを考えなさい」のような問題を代わりに解いたら、先生にペケを食らったという話もある。
このように物語文の正解はあくまでロジカルに読み解ける凡その期待に沿った正解であって、筆者の気持ちや伝えたいことというのは、本当はその選択肢の中にはない。ことが多い。その一行を書いている時の筆者の気持ちは「日本文學界に歴史を残すぞ!」というものから「お腹すいたなぁ」とか、締め切り間際で「編集者ににらまれながら書くのは嫌だなぁ」とか、「うんこしたいなぁ」とかそういうしょうもない感情だって色々あるはずで、正しい解を見つけよ、というのが土台無理な話である。
ただ、この世にはどうやら正解とされるものはあるらしい。是非はともかく、それは世の中では傍目と呼ばれる。何かを逸したことをすると傍目は「それは間違っているよ」と平気で言う。極論を言えば、人殺しが是な世の中では、毛唐に手を下さなければ非人の時代だった。自分の正解と傍目の正解は異なるのだから、傍目、曰く「それは間違っているよ」こそ、はた迷惑なことはない。
正解と正解とされるものは鉾と蒲鉾くらい違う。蒲鉾で戦場に行く人はいない。にもかかわらず、正解とされるものに支配されている人は多い。きっと遠井空さんだって、なんとなく「尾瀬=夏」のイメージがあっただけ。だって周りがそう言ってたし?
空さん曰く、時々思うようです。「どうしてあんなことで意固地になったかな。春でも夏でも。尾瀬が好きだったのは一緒だったし、秋でも冬でもよかったのにね。別に尾瀬じゃなくてもよかった。あの人と一緒だったら。どこでも楽しかった。わざわざ別れなくてもよかったのにね」と。
それも真っ赤な嘘ですが。

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