忌憚なき奇譚

「ガニョーン ガニョーン」
朝、近所の工事現場から聞こえるこの音でうっすら眼が覚める。
時計を見ると、まだ寝ていられる時間だ。二度寝をかましたい。
「ガニョーン ガニョーン」
かましたい。かましたいが…、この音はなんだ?
一体どんな作業からこの音が出ているのだろう。
「ガガガ」とか「カーンカーン」みたいな音はなんとなく作業が眼に浮かぶ。しかし、「ガニョーンガニョーン」だ。
何かを「ガ」っと、叩く。
そして、その何かを「ニョーン」と伸ばす。
「ガニョーン ガニョーン」
そんな作業を見たことがない。
叩いて伸ばす・・・。人を育てているのか。
親方が若手を一回叱咤したと思ったら、「でも、まぁ、他の連中に比べたら、やる気があるのは認める」と言い残したのか。
「ガニョーン ガニョーン」
そういうやりとりの擬音かもしれない。
「ガニョーン ガニョーン」
んなわけがない。
その空気?アトモスフィア?
それ表す擬音が耳に聞こえるわけがない。
そのやりとりの後に感動した若手の「ありがとございまーす!」という声なら聞こえるかもしれないが、人材育成の擬音が聞こえるわけもなく。
「ガニョーン ガニョーン」
だめだ。無視しなければ貴重な二度寝を逃してしまう。
「ガニョーン ガニョーン」
この音のせいで、中途半端な二度寝をこじらせて会社に遅刻したらことだ。「なぜ、遅刻したんだ?」「いや、外でガニョーンガニョーンって工事の音がしていたせいで、二度寝に失敗して」「そもそも二度寝をしちゃいけないよ」「それもそうですね。アハハハハ!」「そうだよ。ジョニー!アハハハハ!」
「ガニョーン ガニョーン」
そんなアメリカのコメデイみたいなやりとりは絶対にない。誰だジョニー。どこから出てきた。
「ガニョーン ガニョーン」
あぁ、見たい。どういう作業の先にその音があるのか。
もはや、二度寝を諦めてもいいとすら思ってきた。
「ガニョーン ガニョーン」
その作業のビフォー・アフターで一体何がどうなっているんだ。
上から叩いた鉄骨が伸びて、そののち、熱したガラスのようにフニャンとなっているのか。それは…少しかわいくないか?
「ガニョーン ガニョーン」
フニャンとした鉄骨でできた建物に住みたいとは思わないが、フニャンとした鉄骨みたいな飴は見てみたい。
「ガニョーン ガニョーン」
というか、普通にうるせぇよ!
我慢ならんと、布団を飛び出しカーテンを開ける。
窓を一枚隔てたベランダに、1mはあろう大きな顔なのに体が子供のように小さな男がいました。
私と眼が合うと、その大きな目でニヤリと笑って、大きな口を開けて言ったのです。
「ガニョーン ガニョーン!!」

…というような夢を見た。えらい気味が悪い夢を。
ベッドから体を起こし、喉が渇いたので冷蔵庫へ。
まぁ、ブログのネタにはなるかな、と水を一口飲んで、時計を見る。
まだ時間があったので二度寝するかぁ、と布団に入り目を閉じる。
すると、カーテンの向こうで「ガニョーン ガニョーン!!」。

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ていねいなくらし

「丁寧な暮らし」をしたい。
よしもとばななの小説に出てくるような。安野モヨコのエッセイに出てくるような。OZ magazineに出てくるkanocoのような。kanocoのような暮らしは、それはkanocoの暮らしじゃないだろうか。
そんなことはどうでもいい。
「丁寧な暮らし」とはなんぞや。ずばり自炊まみれの生活だと思う。
そこで、今年のゴールデンウィークはとにかく自炊をした。約8日間の休み中、外で食べたのは出かけ先で食べた「油そば」くらいだった。「油そば」は丁寧な暮らしでは自生しない食べ物だ。「油そば」ピーター・ラビットの世界にマッド・マックスの登場人物が出てくるくらい、「丁寧な暮らし」とは距離がある。
ゴールデンウィークに外食をしないこと。これすなわち世の経済活動に参加しないのと同じであるが、俺が経済活動から離れたところでアフリカの子供の命が助かりもしなければ亡くなりもしない。俺のあずかり知らぬところではない。
そもそも「丁寧な暮らし」とアフリカの暮らしは真反対のイメージがある。俺の考える「丁寧な暮らし」には‘狩り’の要素は微塵もないからだ。
もちろん、丁寧な‘狩り’はあるのだと思う。「今日は矢じりを研いでおこう」とか「あまり叫び声をあげないで狩ろう」とか「動物はゆっくり殺そう」とか。動物をゆっくり殺すのはそれこそ「殺生な…」と思うが、‘狩り’が入ったその時に、暮らしは途端に丁寧ではなくなる。
とどのつまり「丁寧」の対義語が「アフリカ」であるといえよう。異議は認める。
そんなこんなで、野菜をこれでもかと買った。野菜をこれでもかと買ってきたのは、その野菜を一列に並べて眺める…とか、買うだけ買って、隣近所に配りまわる…とか、そういうことのためではない。それは「トリッキーな暮らし」をする人の行動だ。ハッシシとかガンジャとかを作る人はそうするだろう。
私が目指すは「丁寧な暮らし」で、野菜をこれでもかと買ったのは、野菜スープを作るためだ。
にんじん、じゃがいも、はくさい、だいこん。
皮を剥いて、切って、皮を剥いて、切って。
一通り準備した後に思った。これらの食材を全て入れるには、鍋が小さい。小さすぎる。同じ鍋がもう2つは必要…というか、寸胴がいるのではないか。
迂闊だった。
何も考えずに切っていた。
「丁寧な暮らし」を目指したはずが、これじゃあ「バカの暮らし」になってしまう。
とりあえず、切ったものを切ったものを鍋に盛って、煮て、食べた。そこそこ優しい味がした。
GWの大半は3食野菜スープ生活であった。そして、なんだかパンチがあるものを食べたくなり、自生していない「油そば」を食べた。
丁寧な暮らしは遠くになりにけり。

あの構成員

とある講談師の人が、日常生活でカタカナ語を使っているので、つい間違って講談の途中でカタカナ語を使ってしまう…という話をしていた。
ネタは赤穂浪士の敵討ちが主題の『忠臣蔵』!
大石内蔵助が今まさに吉良邸に討ち入ろとせん物語の山場!!
「皆の者、準備はよいか」
「おぉー!」
「いざ行かん!このメンバーで!」
…というわけで、メンバーの話だ。
思うにメンバーというのは「スタッフ」とか「ファミリー」のような集合名詞的なものであり、それを一個人の敬称に使っているので、ただでさえややこしい事件が余計ややこしくなっている気がする。
なぜ、あの「○○メンバー」という言葉に我々はもやっとするのか。
英語を無理やり使っているからややこしく聞こえる可能性はある。
「二刀流・大谷」を「バイセクシャル・大谷」と言い換えれば、「はぃ?」となる。無理に英語を使わずに、「○○メンバー」も日本語に言い換えてみると「はぃ?」と思わなくなるのかもしれない。
「○○メンバー」改め、「○○構成員」。
これはこれでややこしい。あの方の名字が名字なだけに「あれ、これ、山口組関連の事件かな?」と受け手に誤解を招く。「小室ファミリー」も日本語に直したら「小室一家」となんだかゴッド・ファーザー感が出る。
もちろん、ことがことなので「〜さん」と軽く扱えないのもわかる。
「〇〇さんが酩酊した状態で自宅に呼んだ女子高生を…」
これじゃあ「奥さん同士の世間話じゃないんだから」と思ってしまう。
なら「○○くん」か。あの会社の方々は先輩を「○○くん」と呼ぶことだし。
「〇〇くんが酩酊した状態で…」
ものすごく帰りの学活っぽい。「おい、クラス長それ言うなよ〜」みたいな軽さがある。
全然関係ないが、私が卒業した慶應大学の教授も「〇〇先生」とか「〇〇教授」ではなくて、学内では「君付け」で呼ばれる。だから、休講の知らせなどは「〇〇君 休講」のような張り紙が掲示板に出るのだけれど、もし教授の誰かが悪さして逮捕されたら「KEIOの○○メンバー」と報道されるのだろうか。
レッテルというのはこの世の中で大切にされすぎているし、モノの見方を狭めてしまう。だから「メンバー」と呼ばれたら、それは「容疑者・被疑者」の類いではなくなってしまって、ものすごくコトが軽くなってしまうところに、言葉の重みがある。
だからこそ敬称一つとっても言葉は怖いもので、曲がりなりにも言葉を使うものとして気をつけなければならないなぁと思う今日この頃。
自戒の念も込めて。そう警鐘を鳴らして行こうと思うのです。

ふざけテープ

某日ー
「手縛っていい?」はどうかと思う。
いや、私が今までの人生で「手縛っていい?」と人に聞かなかったから、そう思うのかもしれない。
例えば私が警官だったら、泥棒をお縄にするときに言ったかもしれない。
「手縛っていい?」と言われたこともない。
例えば私が泥棒で、警官にそう言われたら「ダメって言ったら、縛らないんですか?」と聞くだろう。
要するに「手縛っていい?」は言うのも聞くのも、逮捕の瞬間くらいレアな言葉だ。
一方の「おっぱい触っていい?」のレア度は低い。
さすがに「おはよう」ほどではないけれど、言う。主に「おっぱい触っていい?」は主に風俗店ではレア度が低い。むしろ、高くなる気もするが、まぁ、言う。もっとも言うからとて、言って許されるかどうかは別だ。
でも、「手縛っていい?」はどう転んでも言わない。セクハラそれ自体は許されないが、国民の怒りの一因に「このおっさんふざけすぎなんじゃないだろうか?」という気持ちがあるのではないかと思う。本人は言葉遊びだと言うが遊びが過ぎる。どう考えても、ふざけているとしか思えない。あのテープが捏造だというのも何だかふざけを感じる。
件のテープで喋っているのは確かにあの人だけれど、聴いてるあの人は一体誰なんだろう。

某日ー
某日っーか、4月8日、お釈迦様の誕生日に浅草を離れ、今住んでいるところに引っ越した。
引っ越し当日、タクシーで横目に浅草寺を見ながら、その昔、お釈迦様の誕生日に甘茶を配るバイトを浅草寺でしたことを思い出した。
大学時代はことあるごとに浅草寺でバイトをしたものだ。
そして、その都度思うことを私は書いていたので、たまには過去の記事を紹介しようと思う。手を抜いているんではない。楽をしたいだけだ。

夏の得々キャンペーン(2014/07/16)

「これでいいのか?」と思うことは、まぁ、あって。
浅草は浅草寺さんにて、四万六千日(しまんろくせんにち)という行事のお手伝いをさせて頂いた。1日詣でてゲット出来るご利益を“1ご利益(以下1G)”とするならば、7月10日に詣でると、なんと四万六千日分・“46,000G”を得られる…というのが四万六千日だ。
一体、いつからご利益はそんなポイントカードみたいなものなったのか。私の知る限り、どの「夏の得々キャンペーン!」でもポイント46,000倍は聞いたことないのである。
現在、四万六千日は7月9日・10日の2日間開催だ。
かつて「10日に一番乗りして、誰よりも早く神様にオイラのお願いを聞いてもらうんだい!」という前乗り組がいた。そういった信仰が厚いんだか、業が深いんだか分からない連中が結構いたので、9日から人出が多くなり、「じゃあ、もう9日もポイント46,000倍でいいよ。夏の得々キャンペーン2Daysだよ!わー!」ってな具合で7月9日・10日の両日が四万六千日の日になった。
「これでいいのか?ユルすぎ…じゃないのか?」と思うが、ドラッグストアー浅草寺の店長・観音様に「別によくない?これがアタシのスタイルだしぃ〜。別に減るもんじゃないし〜」と言われたらそこまでだ。その観音様のユルさが魅力の一つなのかもしれない。
四万六千日分というのは約126年分に相当する。この2日のどちらかに詣でれば、人間で言うところのほぼ一生分のご利益を得られるということだ。そこまでユルいんだったら、「俺、さすがにこんなにいらねぇから、26年分のGあげるわ」「マジで?ありがとう。母ちゃん喜ぶわ」…と、人にあげる制度もあればいいのにと思うが、そこはさすがの観音様も「それは、ちょっとマジありえないんですけど〜」と怒るかもしれない。
私は神様も仏様も将軍様もいると思うが、信仰はしていない。
イエスの言うことも、ブッダの言うこともなんなく分かる。得高ぇ、とも思う。さすがに将軍様の言うことは理解に苦しむが、“分かる”と“信仰する”には結構大きな隔たりがあって、言ってしまえば、それらを「マンセー!マンセー!」することにあまり興味がない。
人でも物でもそうだが、“何かを信じる”というのは、その先で“その何かに裏切られる”という可能性を孕んでいる。裏切られたくなんかねぇよ、という気持ちが何かを信じるということと距離を置かせているのかもしれない。そもそも、単純に何かを信じ続ける体力が、ない。
そういう私みたいな人からしてみれば、四万六千日というぬるま湯は素晴らしいものがある。年に1回来れば、その1年どころか、ほぼ一生来なくてもいいという懐の深さ。
「だから〜アタシ、結構、懐深い方だってば〜」そうですね。
「結構、ユルいことで有名なんだから〜」それはまた意味合いが…。

この日1日、浅草寺の本堂で働かせてもらった。
四万六千日と知って来る人、知らずに偶然来たラッキーな人、普段から毎日来ている人、人、人。色々な人が一生懸命に祈っているのを見た。
ある人に、「これで幸せになれますかね〜」と笑顔で聞かれた。
「なれるんじゃないっすか〜?今日、四万六千日ですし〜」と笑顔で返した。
「これでいいのか?」と思うことは、まぁ、あって。
四万六千日のユルさとか、その返事の軽い雑さとか、一日中本堂にいたのに参拝しなかったもんだから46,000Gをみすみす見逃した自分とか。
その大体は赤塚不二夫の大発明で片付けられる。
これでいいのだ。

夫婦漫才

『「はいどーもー」』
「林シンゾーです~」
『安倍マスミです~。2人合わせて』
「『林シンゾー・安倍マスミです~』」
『長いでしょ~』
「普通はねぇ?夫婦漫才のコンビ名いうたら<林シンゾー・マスミ>とかでしょ?」
『昭和のいる・こいる師匠とかねぇ?』
「あの人らは夫婦ちゃうけどね」
『ワタシら、事実婚ですねん』
「そ、籍入れてまへんねん」
『せやから苗字も別々で、名前も別々ですねん』
「名前はもともと別々やけどな」
『籍入れてもねぇ、ワタシ、林マスミになるしなぁ』
「得意料理なんやったっけ?」
『カレーライス』
「洒落なってへんやん」
『もしくは、ライスカレー』
「一緒や」
『隠し味にアレ入れんねん』
「なんですのん?」
『りんごと蜂蜜』
「普通か(つっこむ)!ヒ素入れろやヒ素」
『入れへんわ。あんたが食べるねんで。入れられるわけないやろ』
「な、なんやねん急に…。セリフ飛ぶがな」
『味噌汁には毎日入れてるけどな』
「そうなん?それはそれでセリフ飛びそうなったわ」
『結構ねぇ?籍入れへんの?…って、周りの人に言われますよ』
「そやなぁ。ここの席亭さんからもよく言われます。はやく籍入れたらええのにぃ、て」
『そういう時、ワタシ、陰で席亭さんに言ってるねんで?』
「なにを?」
『ワタシらが籍入れる前に、今月の下席入れてもらわな、困りますぅ、言うて』
「その後、僕が、余一会もお願いしますぅ、言うて」
『そやったんかい。道理で月末休みないなぁ、思ったわ。似たもん夫婦やねぇ』
「墓は別々やけどな』
『お客さん、ここ笑うとこですよ』
「そんな2人で夫婦漫才やらせて頂いてます」
『なんか、あれでしょ?夫婦漫才って、逆にセックスの匂いしないでしょ?』
「なんやの急に」
『昭和のいる・こいる師匠とか、絶対セックスしてないでしょ』
「男同士やからなぁ」
『籍入れてないと、逆にするでしょ?お客さん、どう思います?…なんですの急に下向いて。私に声かけんといてみたいな』
「そらそやろ」
『いや、夫婦漫才ってそこがね、難しんですよ。あんまセックスセックスしてもあれやし、セックスセックスしてなくても、あれやし』
「そこは難しいですよね。ボクら子供もおらへんしなぁ」
『そうなんですよ。ワタシらのネタ書いてるのこの人なんですけど』
「ネタは書けるねんけどねぇ」
『タネがないねんね』
「無精子病ですねん」
『聞きました?みなさん。ムセイシビョー、て』
「芸の神様はいけずやで。ネタはくれてもタネはくれへん」
『まぁ、子供作ることに羨ましさがあるんやろなぁ。ゲイの神様だけに』
「ここ笑うとこですよ」
『のいる・こいる師匠もゲイの神様に…』
「自分、のいる・こいる師匠好きすぎるやろ。どんだけ、のいる・こいる言うねん。のいる・こいる師匠の漫才より、のいる・こいるって、言葉が出てきてるんと違う?」
『のいる・こいる師匠の漫才でのいる・こいるって言葉出るの察するに最初の自己紹介だけやけどな』
「急に冷静になるのやめてくれへんかな。最近だと、事実婚やのうて、フランス婚だなんて言うらしいですよ」
『そ、ワタシらフランス婚ですねん。ええなぁ、フランス行ってみたいわぁ。連れてってや』
「行くんやったら新婚旅行かなぁ?」
『冗談やめてよ。新婚になったら、ワタシらアイデンティティの崩壊、仕事は激減、おまんまの食い上げやで』
「そしたら、君は思うんやろなぁ」
『あぁ、結婚せぇへんかったらよかったのに…』
「そう考えたら、フランス婚も悪ないな」
『言葉がおしゃれやしな。事実婚って、なんのこっちゃって感じやけど、フランス婚って言われたら…言われたら〜…余計なんのこっちゃって感じやな』
「でも、言いやすくなったわな。昔は、僕ら事実婚なんですー、言うたら、えぇ?…みたいな顔されたけど」
『フランス婚です〜言うたら、頭が追いつかへんのやろうね。ニュアンスで納得して、ニュアンスで噛み砕いて、ニュアンスで偉いねぇ、とか言われるもんね』
「何が偉いのかわからんけどな。君なんか言うたら、内縁の妻やからな」
『よしてよ。事実婚に内縁の妻だなんて。なんや報道の匂いがするわ』
「事件の香りがなぁ」
『せやで。せっかく、フランス婚の奥さんになってんから、内縁の妻なんて呼ばれたないわ』
「せやったら、なんて呼んだらええの?」
『せやなぁ…ファムファタールかなぁ』
「な?不破無不渡たる?」
『なんやねん。その不渡り。そら不渡たるやろ』
「そう言うたやろ」
『言うてないです。ファムファタールや。男性を破滅に向かわせるほどの魅力を持つという女や』
「破滅に向かわせるほどの魅力ぅ?あほ言うたらあかんわ。そんなんな、フランス婚でも事実婚でもないで。事実無根や」

まともがわからない

某日ー
お花見
集合:19時30分/茗荷谷の某所にて

15時くらいから仕事が手につかず、終始そわそわ。結果、4時間そわそわしているだけで、一切仕事は進まず。それはどうなんだろう、勤め人(びと)として。
あたかも社外で会議のようなものがあるそぶりで、19時に会社を出る。
思えば、11時に出社したその時からずっとそわそわしていた。日報を書くとしたら、「11時 出社、以降、そわそわ/14時昼食/15時 そわそわ/19時 退社」だ。
俺は計7時間もそわそわしに会社へ行ったのか?
それとも、昼飯を食いに会社へ行ったのか?
それはそれとして。
それぞれ別の会社でそれぞれ別の務め人が一箇所に集合する、となるとゆっくり集合するもので、全員が揃う頃には9時前だった。
一番最後に来たやつは何故か着物でやって来た。
「それで普段会社に行ってるの?」
「いえ、一回家に帰って着替えて来ました」
「そう…」
一回家に帰る時間があったら、もう少し早く着いたんじゃ…。
そう思ったが言うのも野暮なので桜の下ビールと一緒にグッと飲み込んだ。
終始ケラケラ笑っていたが、あまりにも騒ぎすぎたので警察が来てお開き。
社会人がそこそこいて、警察に注意されるまで飲むお花見は端から見たらキチガイじみているだろう。当事者としてもキチガイだと思う。
警察が来るほど笑っていたのに、帰りの電車では一切話の内容を覚えていない自分に少しゾッとした。
花見て、酒飲んで、笑って。
これはこれで幸せというものなのかもしれない。
自分の中の幸せ度数が少し高くなってしまっている気がしたので、帰り道に食べたくもないラーメンを食べた。
きっと明日の私は体重計に乗って、軽く悲鳴をあげるだろう。
それくらいの不幸があったっていいはずだ。今日はそれくらい幸せだった。

某日ー
きっと多くの企業が入社式などをするであろう今日。
私はあたかも打ち合わせがあるかのように会社を抜け出し、入社式帰りっぽい新社会人を尻目に映画館へ行き、『シェイプ・オブ・ウォーター』を見た。
でもさぁ!言い訳するわけじゃないけどさぁ!
昼の映画館って人いっぱいいるぜ!日本も終わりだね!
『シェイプ・オブ・ウォーター』は「大きな賞を取ったB級映画」という感じで、『シン・ゴジラ』を見たときもそう思ったが、才能も金もあるオタクが作ったものというのはまぁぁ面白い。オタクが作る「わかる人が分かればいい。分からなくても別にいい」という感じも含め。
主人公が喋れないというのも思えば『人魚姫』へオマージュで、そんな彼女が例の水生生物とコミュニケーションを取れるというのは「あぁ、うまいなぁ」と思うし、それぞれの登場人物が「世間的に何か欠けている」という設定の徹底も、なんだかオタクっぽい作りでうまい。
何がまともで、何がまともじゃないのか。
きっとそれぞれがまともで、まともじゃないと思う。
わかる人が分かればいいし、少なくとも新年度初日からサボるのはあまりまともじゃないと思う。

「イエス」と言えない日本人

…になってしまった。「そだねー」のせいで。
間違っても日常会話で「じぇじぇ」は言わなかった。久慈市の人は言うかもしれないが。
驚いて「じぇじぇ」と言う時は俗に言う「狙っている」時である。そして、往々にして狙っている人はすべからくスベっている。傍目には「この人は流行語を無理に会話に取り入れている寒くて痛い人だ」としか思えない。
でも「そだねー」は言う。久慈市の人も絶対言う。
「すっかり春だねぇ」「そだねー」
返事をするたびに脳がざわざわする。どんなに楽しい会話もそこでお釈迦になった気がする。
嗚呼。きっと、いま世の中のキャバクラでは酔っ払ったおやじが「そだねー」を連呼しているのだろう。クラスのお調子者もバカの一つ覚えみたいに「そだねー」と言っているに違いない。
「項羽って、最後にどの国の人に囲まれたんだっけ?」「楚だねー」
この世にそんな会話はない。しかし、それくらいトリッキーな会話ではないともう我々は「そだねー」を平常心で言えなくなってしまっている。
「そうだよね」は少し距離があるし、「そうねー」はなんだか余裕が小癪、「そねー」は人を呼んでいるみたいだし、「左様」じゃ武士だ。
「桜が綺麗だねぇ」「いかにも」
ふざけてるのか。私のことが嫌いなのか。武士なのか。バカなのか。
気持ちは「そだねー」なのだけれど、口が「そだねー」を拒む。だから時に会話にあらぬ間が生まれてしまう。
「これおいしいねぇ」「…そ、そうね」
あれ、この人は美味しいと思っていないのか。美味しいと思っているのは私だけなのか。私はベロが呪われているのか。遠回しに「死ね」と言っているのか?
結果、コミュニケーションが損なわれてしまう。
あぁ、相手の思いを肯定したいだけなのに。
近い将来、日本人は「そだねー」と言うことを拒むあまり次第に脳が「そだねー」ということを、すなわち相手を肯定することを拒むようになるのかもしれない。
「すっかり春だねぇ」「そうかなぁ?」
「桜が綺麗だねぇ」「どうだか」
「これおいしいねぇ」「……」「え、無視?」
こういうただの嫌な奴に成り下がる。
さらに時代が進めば、肯定を拒むばかりか、とりあえず否定し始めるようになるだろう。
「すっかり春だねぇ」「違う。南半球は秋」
「桜が綺麗だねぇ」「お前それ、目の見えない人にも言えるのかよ」
「これおいしいねぇ」「これが?これで?へぇ…幸せだね」
いちゃもんだ。もっとも、ネットだとこういう否定マシーンのような人種がいるからSFにも成り切らないのがまた恐ろしい。昔ツイッターで「AV女優の吉川あいみは18歳の時に一度結婚してる(遊び感覚で)」というツイートをしたら、見ず知らずの人から急に「してないよ。笑」っていうクソリプが来たことがある。そもそも、俺も吉川あいみのAVを見て知った嘘かも本当かもわからない知識をつぶやいているだけのクソツイートなので、両成敗という感じではあるが。
せめて現実世界では、お互いにお互いを肯定し合う世界でありたい。
そういう優しい世界に私は住みたい。
「イエス」とも「ノー」とも言えない日本人の私はそう思うのです。

○△◻︎

浅草に引越した。
今週から3週間限定で浅草住まいだ。
旅行などで観光地に行くたびに「ここに住んでいる人は一体どういう暮らしをしているんだ?」と思っていたが、実際に観光地に住んでみて分かった。
何も変わらない。食う寝るクソする。終わり。シンプルだ。よっぽど旅先の方が食べて祈って恋をしているものかもしれない。
「住めば都」ならぬ「住めば住宅街」。さすがに歓楽街に住んだら「歓楽街は歓楽街だな」と思うのかもしれないが。
小学生の頃、数年間仙台に住んでいた。社会科の授業で国分町という歓楽街を歩く校外学習があった。事前に国分町にあるお店を調べ「気になったお店がそこにあるかどうか行ってみましょう」という、そこそこざっくりした雑な企画だったと思う。国分町はスナックとかちょっとした風俗とかがある街で、今にして思えば、よくPTAが何も言わなかったものだ。
先生から配られた国分町の地図。「田端フラワーショップ」や「ヨシダベーカリー」など数あるお店の中で、小田切少年の目を奪ったのは「○△◻︎」というお店だった。
「何屋だ?」
田端フラワーショップは花屋だろう。ヨシダベーカリーは100%パン屋だ。その名前で両方とも米屋だったら笑う。
でも、「○△◻︎」は?
周りの同級生はそういう分かりきったお店に行きたがる。
そこに何かあるのか?
せいぜい「田端さんがやっている花屋だなぁ」に「吉田さんがやってるパン屋だなぁ」くらいの感想だろう。
そこにきて「○△◻︎」だ。全てが謎。実在するのかすら謎。そんな場所が本当にあるのか。宇宙人の仕掛けた罠?
今だったら、「禅寺?」くらいに思えるかもしれない。「卑猥すぎて地図上に載せられない?」とか。もっとも、地図は許さないけど、建てることは許される名前があるとは思えないけど。
郊外活動当日、国分町のアーケードをぐんぐん歩いた。「○△◻︎」へ向けて。そもそもなんて読むんだ。「○△◻︎」。まる・さんかく・しかく?本当は人間が発音出来ない音なのかもしれない。
「○△◻︎」はなかなか見つからなかった。あっちでもない。こっちでもない。来た道を戻ったり、地図をぐるぐる回してみたり。
一番メインのアーケードから一本離れた長い道をもう一つ入った狭い道に「○△◻︎」はあった。
「あったね」「あった」「あったあった」
何屋だ?わからない。なにせ、お店が開いていない。中に入ることも出来ず、何屋かもわからず。
小学2年生の私には、その存在しか見つけることができなかった。でもあった。「○△◻︎」は。
それからしばらくして、引越しで仙台を離れ、さらにずいぶんして、私は大学生になり、先輩と仙台旅行へ。
「どこかで飲みに行くか」
「いいですね。国分町が飲み屋多いらしいですよ。僕調べます」
ガラケーを使って、「国分町」「居酒屋」で検索をかける。
「○△◻︎」という居酒屋がひっかかる。あぁ、ここ居酒屋だったのか。そらぁ、昼、開いていないわ。
「おいしいかどうか分かりませんが僕が行きたい居酒屋があります」
「えぇ?あぁ。うん。いいんじゃない?」
10年前に行ってみたかった場所に、あまり乗り気でない先輩を連れていく。
酒がよかったのか、肴がよかったのか、思い出がよかったのか。
そのどれかはわからないけれど、私と先輩はひどく酔っ払った。そのまま仙台に残った先輩は漫画喫茶の廊下で翌朝目覚め、私は帰りの深夜バスの車内で大リバースして、ひいき目にみて地獄を作った。
そこから、年に数回仙台に行く機会があり、今度は先輩になった自分が後輩を連れて「○△◻︎」へ。
酒か、肴か、思い出か。案の定、毎回酔っ払った。
確か、卒業旅行の時だったと思う。
地図アプリに頼らずとも、道を間違わず「○△◻︎」に行けるようになっていた。
お店の前に着く。しかしお店の扉は閉まっている。
「あぁ!定休日!?」
そこそこ歩かせた後輩に文句を言われながら、スマホで定休日かどうか調べるために「○△◻︎」で検索。
なんとその年の夏に閉店していた。後輩の手前、表情には出さなかったが、有り体に言えば泣きそうになった。
たかが、店がなくなっただけ。歓楽街だから仕方がない。それでも「歓楽街は歓楽街だな」とは思えなかった。
だからなんだと言われれば、それまでだけれど。

恋とマシンガンと花粉症

某日ー
来週からホームレスになる。
期間3週間のホームレスだ。詳細は省くが、期間が決まっているというのは救いがある。というのも、期間が決まっていないのはあまりにも救いがないからだ。
仕事はある。家がない。
家はない。口内炎がある。
何を言っているのか自分でもよくわからない。
そんなこんなで14年ほど住んだ北千住を離れる。14年というのは生まれたばかりの子供が中2になるくらいの年齢だ。
中2て!
今のところに住み始めたのが、ちょうど中学1年生の時だった。あの頃の私が生きた分よりも、住んだ私の幾年の方が長い。
先日の休みの日、最後だからと家から一歩も出ずに家にいた。何か特別な感情が生まれるか生まれるかと過ごしていた。
結果?
1日を無駄にした。
毎回何かの終わりには大抵無の感情になってしまう。なにかこう、泣いたり、悲しくなったり、物思いにふけったり、したいのだけれど。そこは無なんだよなぁ。
心がないのだろうか。

某日ー
恋をすると花粉症にならないらしい。
そのことを教えてくれた人は鼻がジュルジュルだったので、多分恋をしていないのだと思う。というか、道ゆく鼻ジュルジュルの人は恋をしていないということになり、これすなわち、花粉症同士のカップルはお互いに恋をしあってないということになるのではないだろうか。全く好きではないか、それか、2人を繋ぐのはもはや「愛」なのか。
道ゆく花粉症の人に「恋した方がいいですよ」とアドバイスしてみたいが、それはそれで「あ、やばい人に絡まれた!」と体が構えて、別の意味で鼻水が止まってしまうので、あまり意味がないんだと思う。

某日ー
とりとめもない日々だ。
きっと、とりとめのある日々がこれから来るのだと思う。そう思いたい。

甘苦・辛苦・酸苦

数年前の夏、宮城県の女川に行った。
プレハブ小屋で落語会をして、その終わりに打ち上げがてら、お茶会のようなお接待のような、要するにそのようなものをした。
「食べんせぇ、食べんせぇ」
東北弁のネイティブがしきりに色々なものを勧めてくる。
テーブルの上には食べるにはおおよそ甘すぎるし緑色すぎるの寒天ゼリーがあり、そのゼリーの底面にはなぜかゆで卵の白身をぶつ切りにしたものが沈殿していた。
「嘘だろ?ゼリーに卵?」
その場にいた我々はそういう思いを胸に「美味しいですねー」と満面の笑顔で謎のゼリーを食べた。本当はもっと「緑ですねー」とか「甘いですねー」とか言いたかったけど、それを言ってしまうことは何か人の道を外れる気がしてならなかったのだ。
「食べんせぇ、食べんせぇ」
今度は今度で食べるにはおおよそ塩っ辛い漬物が出てくる。夏も盛り、汗もかいたし、塩分を体が求めていたのは事実だが、一口かじっただけで、体が「おれはここまで欲しがったか?」と脅迫してくるまがまがしき漬物。
あぁ、甘いものが欲しい。緑のゼリーを一口。あぁ、甘いものはもういい。辛いものがいい。漬物を一口。あぁ、辛いものはもういい。
なぜ、この場には極端に甘いものと極端に辛いものの二つしかないのか。この辺の人は舌が呪われているのか。
「食べんせぇ、食べんせぇ」
初売りのオープン時、入り口間際で腰を曲げるデパート店員にも似た腰の角度の老人が持ってきた手にはタッパーが。
ル・クルーゼとかのおしゃれなやつでない。蓋がピンクとか黄色のファンシーなものでもない。タッパーだ。タッパー以上でもタッパー以下でもない、タッパーとしかいいようのないタッパーをおばあちゃんは持ってきて、そのタッパーの中には禍々しく緑のきゅうりとわかめの酢の物が入っている。
甘・辛・酸。
そのどれもが行きすぎている。この酢の物は食べていないが、わかる。この流れでこの酢の物が絶妙だったら「あ、いよいよ舌がバカになったんだな」と自分の舌を仙台駅周辺の牛タン屋に寄贈するだろう。
で、食べた。出されたからには食べた。
極端に甘いものと極端に辛いものを食べた後に食べる酢の物は、ちょっと味がわからなかった。
しかし、明らかにレビューを目の前の老人は待っていた。期待のあまり目の中の星が光っている。あぁ、これで「星一つ」などつけられようか。せめて、彼女の目の中にある星くらいはつけなければ。嘘でもいいから。
「おいしいですね!」
「んだろー」
「このわかめもすごく美味しい!」
「んだー。三陸のわかめは歯ごたえがちげえ。東北のつめてぇー水で育ってるから、かみごたえがあるんだぁ。噛めば噛むだけ味も出るしなぁ」
「へー、あ、このわかめもこの辺で取れたやつなんですか?」
「んや、今朝そこのスーパーで買ってきた中国産だぁ」
東北の人間が素朴だというのは嘘なのか、素朴がすぎるのか。
あれから、数年が経った。
それでも、今日この頃、あの味を思い出す。