パタリト

学生時代からお世話になっていた喫茶店がある。
そこのマスターは初めて会った時からもうおじいちゃんだった。それはもう完成したおじいちゃんだった。
「初老?」という疑問すら浮かばないくらい、腰を据えた、ガンジス川が如き「老」だった。その割には腰の折り曲がり方は凄まじいものがあり、晩年のガンジーに似ていた。ガンジーの「老い」に極めて近い老人だったので、ガンジーの甥だったのかもしれない。
初めて会った時から7年が経った。
7年。人の見てくれは相当変わる。学ランでにきび面の15歳中三男子はリクルートスーツで七三気味の22歳就活生になる。
おじいちゃんは概ねおじいちゃんのままだ。マスターも最初に会ったおじいちゃんのままだった。シワが2ミリくらい深くなったり、生え際が3センチくらい後退したりしたのかもしれないが、そんな後期高齢者の微妙な経年劣化は目で見えなかった。
だから、いつまでも続くと思っていた。
目で見えるものでさえ見えないのに、見えないものが見えるはずもなく、いつのまにやら見えない部分の経年劣化は進んでいたらしく、ある日ー。
パタリッ!
店が閉まった。マスターは倒れた。
その日まで、騙し騙しマスターは店を切り盛りしていた。俺も「まぁ、なんとなく次も空いているだろう」と騙し騙し通っていた。もはや誰が誰を騙しているのか、騙されているのか。騙しの卵とじ状態がしばらく続いて、誰もが何となく先延ばしにしていたら、ベタにある日パタリッ!
学生時代は授業をサボりによく行っていて、社会人になってからは純粋にサボりに行っていた。外回りだと嘘ついて、夏の暑い日などは昼間からマスターと少しアルコールの入った麦のジュースを軽く飲んで、日によっては軽く深酒してから会社に戻って怒られたりすることなどもあった。…まぁ、当たり前だ。
どういうわけか、どんなに忙しい日でも俺が入店すると人が「パタリッ!」と来なくなるというジンクスがあり、「お前が来ると客がこなくなるからなぁ」と晩老に笑いながらよく言われた。
一度実験がてら、午後の早い時間にお店に行ったら、閉店まで誰も来ず、マスターが「今日はもう閉めるかぁ」と言った頃には俺が入ってから7時間くらい経っていたこともある。午前中はそこそこ繁盛していたらしいので、食いに困ったら俺は「店潰し屋」を開業するつもりだ。
俺が潰しにかかる必要もなく、店は閉まり、しばらくして、皺も白髪も生えていない腰がまっすぐ立つニュー・マスターが現れ、お店の看板をそのまま背負いリニューアルした。
気がつくと、初めてこの店に入った時から7年が経っていた。この7年で知ったことは、人は「パタリッ!」といなくなるということ。
音は楽しげ。楽しげだけに穴が開く。

某日ー
最近似たようなタイトルが多すぎる。がしかし、似てても売れている。
売れている本を二つ足していい感じにしてみたら、それもまた売れるんじゃないだろうか。『四月は君の膵臓が食べたい』とか。ハンニバル・レクター博士が出てきそうだし、その手のものが好きな人にはいいはずだ。このタイトルだと毎月出せそうだしビジネスチャンスがあるはずだ。
「五月は何が食べたくなるのかな!?脾臓かな?」
「十二月は寒いから…肩甲骨周りかな!?」
シリアルキラーが過ぎる。

某日ー
某松井、というか松井某はそのうち自分が死ぬか相手を殺すかの二択になる気がしてならない。それまでは「面白い面白い」と見ていられるのかもしれないが、いざそうなった時は誰がちゃんと落ち込むだろうか。
人の不幸は面白い。不幸には行き切られると「えぇ〜…」と引いてしまう臨界点みたいなのがあり、何かの拍子で不幸はポンッとその臨界点を越えてきて、気がつくと苦い後味だけばかりが残る。
人、面白がれば穴二つ。悪意をもって面白がれば面白がるほど返す刀の威力も物凄い。クマとかヒアリも人を殺すけれど、そこには殺意があって、どう考えても殺意なき殺人が一番怖い。
にしても、松井某の「SNSバカ一代(いちだい)」っぷりは見事。あれだけマメに掃除する人はSNSの使い方もすごくマメ。
「アラブの春」ならぬ「松井の春」がこれから一体どうなるのか。
ものすごく興味がない。死人が出なければいい。

哀、入れない

とある仲良し二人組がいて、片一方はラーメンが大好きだけど、餃子が食べられない。
もう一方は餃子が大好きだけど、ラーメンが食べられない人。
ある日、二人が中華料理屋に入る。
「僕はラーメンが好きだけど、君は餃子が好きだ」
「そうだね」
「さらに僕は餃子が苦手だけど、君はラーメンが苦手だ」
「そうだ」
「ここで提案なのだけれども、<ラーメン・餃子セット>を頼んだら、これは二人とも幸せなのでは?」
「名案だね」
「じゃあ、そうしよう、じゃあ、大将…!」
「あっ、ちょっと、待って」
「どうした?」
「これ、セットで890円だよね」
「税込でね」
「どう支払う?」
「…この金額でカード払いはなくないかい?」
「ないね。や、そういうことじゃなくてなくて」
「なんだい?」
「割り勘かい?」
「…ああ、確かに。445円ずつってのもなんだね。いいよ。僕が450円払うよ」
「そういうことでもなくてさ」
「君が450円払ってくれるのかい?」
「もっとそういうことでもなくてさ。ほら、僕は餃子を食べるよね?」
「うん。ラーメン食べられないもんね」
「君はラーメンを食べるよね?」
「餃子なんて食べたくもないよ」
「で、割り勘?」
「や、セットだから」
「うん、セットだけど。考えてみましょうよ。餃子ですよ。僕が食べるのは。ありますか?445円払う必要が?」
「やめなよ、大きな声で。大将の前で失礼だよ」
「うう。すみません、その、味に445円を払う価値があるとかないとかの話じゃなくて。その、ほら、メインとサブの関係性じゃない」
「僕と君が?」
「や、うん。え?そうなの?そうなのかもだけど、その話は今いいや。掘ると落ち込みそうだし。ええっと、なんていうかな」
「お腹すいたから注文していい?」
「もう少し待って。じゃあ、さ、ほら、あの。二人でショートケーキを作るとするじゃない?」
「それは楽しいね」
「うん。楽しいよ。でも今、楽しい楽しくないはどうでもいいんだよ。で、で、で。僕がイチゴを買って来ました」
「ありがとう。え、いくらだった?半分くらい出すよ」
「いや、うん。たとえ話だから。でね、君がスポンジ作る材料から生クリームから全部買って来ました」
「はい」
「で、どうします?」
「出来上がったら食べます。楽しく」
「うん。楽しさいいんだ。一回、楽しさ忘れよう」
「作業になってしまう」
「なにが?」
「せっかくの君との思い出が作業になってしまう」
「ええっと、ごめん。嬉しいけど、一回無視するね。で、いやらしい話よ。いやらしい話なんだけど、精算するじゃない?どう分ける?お金」
「えっと、僕の買って来た材料費と君のそれを足して、割っての会計にするかな」
「それはなんで?」
「なんでって、二人で食べたから」
「そう。そうね。イチゴのないショートケーキなんて」
「考えられない!」
「ケーキ部分のないショートケーキなんて」
「イチゴ丸出し!」
「そう。イチゴとケーキ、支え合ってのショートケーキなの。どちらかが欠けたら成立しないんだ」
「まるで僕と君みたいだね」
「うん。嬉しいけど無視するね。でもさ、僕がイチゴだけ食べたら、君はどうする?」
「殺す」
「おおう。思ってもみない返答だ。ええっと、つまりさ、殺す前に一回お金の話したいじゃない?」
「殺した後に、そのまま財布持っていく方が早いよ?」
「早いね。早い。早いんだけど、そういうことじゃなくてさ、僕はイチゴだけ食べました。君はケーキだけ食べました。お会計どうしようか?って話」
「うぅん。そこで割り勘にするのは、なんだか悪いなぁ」
「なんでだい?」
「だって、ほら、君はイチゴしか食べてないだろう?例えばホールで作った時、僕はもうケーキを一生食わなくていいくらい食べているけど、君は口の中が甘酸っぱい割には食べた感がないだろう?イチゴ代だけでいいよぉ」
「そう。そうそうそう!いいとこ行ってる!じゃ、じゃあさ、<ラーメン・餃子セット>は?」
「割り勘だよね?」
「そうかぁ…なんでだい?」
「ケーキはほら、おやつだけど。<ラーメン・餃子セット>はしっかりメシだから。遊びのない飯だから。営みだから」
「いや、セットにしたら、そうだけど、餃子単体だと、ちょっとおやつ感あるよね?おやつ感が皮に包まれているよね?」
「ある。あるけど…ううん?わかんないな」
「ほら、だから!餃子なんてたかが知れているじゃないか。せいぜい、一皿6餃子だよ?あのこじんまりとしたやつだよ?一方でラーメンはラーメン!じゃん?」
「うん」
「ちょこん、に、どーん!だよ?ちょこん、と、どーん!」
「うん」
「だから、200、に、690!もありじゃない?というか、そうじゃない?」
「ちょこん…に、どーん?」
「そうそう」
「ちょこん…に、どーん?数の問題?」
「数…というか、そうね、絶対値というか」
「餃子は…一皿6餃子で、ラーメンは…一杯1ラーメンだ」
「そうだね」
「僕が1ラーメンで、君が6餃子ってこと?」
「うん?うん。そうなる…ね」
「あぁ!ごめん!やっと君が言いたいことがわかった!ちょこん、に、どーん!ってそういうことか。僕1、と、君6!ってことだろう?だから、君は僕が200の君690で良いってそう言ってくれてるんだろう?」
「あーそうなっちゃったか。そうなっちゃたな。もういいよ。それでいこうそれで。な?いいよ。うん。よくないけど、いいよ。お腹すいたし、この時間無駄だし。大将というわけで、<ラーメン・餃子セット>を1つで」
それを受けて大将が言う。
「すみません。一人1メニュー頼んで頂けますか?」

575 下から読んでも 575

犬も歩けば川柳に当たる。
「家庭でも 会社のなかでも 窓際に」
その手のサラリーマン川柳に始まり、小学生、主婦、ホームレス。おおよそ人なれば何者かではあるわけだからして、そう考えると誰にでも川柳を詠む権利がある。そのうち犬も歩けば川柳を詠むかもしれない。
夏の昼下がりー。エサ用の皿は汗かいて、舌を出してはハァハァ言う。そんな情景を詠む。
「ワンワワン ワワンワワンワ ワワワワン(秋田麻呂犬彦)」
犬が詠むなら、猫も詠むだろう。
「にゃんにゃにゃん にゃにゃんにゃにゃんにゃ ちゃおちゅーる(詠み猫しらず)」
そのうちキリンも読み始めるかもしれないが、キリンがどう鳴くのか知らないから、例えを出せない。ううむ…もどかしい。
川柳に限らず、石を投げれば俳句にあたる。某お茶(英語で言うなら「ヘイ!グリーンティー!」)のラベルに何句か俳句が載っていて、これが読みたくないけど読んでしまう。思わず「おーい?」と言いたくなるような歌が多い。印象的なのは小学生の歌で、うろ覚えだがこんなやつがあった。
「校長が 校庭で一人 立っていた」
画は浮かぶ。うまいのかもしれない。だが、ううむ。何だろうこの釈然としない感じと誰も損も得もしない感じは。
一方で「松島や ああ松島や 松島や」のパンクたること。まず画が浮かばない。完全に受け手は置いてけぼりだ。普通に生きていて5・7・5の17音に置いてけぼりを食らうことがあるだろうか。
「松島や ああ松島や 松島や」ただの地名の羅列だ。
「秋葉原 神田東京 有楽町」で感動があるだろうか。山手線の外回りくらいにしか思えないはずだ。文字の羅列だけで色々と考えておくれよというコミュニケーションブレイクダウンっぷり。松尾ちゃんの「もう!わからない人は置いていくからね!ぷんぷん!」という声が聞こえてきそうだ。
一方で「校長が 校庭で一人 立っていた」ですよ。授業中にふと校庭を見てみると誰もいない校庭で、校長がただ一人校舎に背を向けて立って、空を見つめる。そこにはどんな物語があるのか。
もしかしたら、「一人」というのは何かのメタファーかもしれない。
全校集会で校長は涙ながらに女生徒の自殺を悼んでいる。同じクラスで彼女のいじめを見て見ぬふりをしていた僕も、担任も、他の生徒も、他の他の他のクラスの人たちも、みんな誰もがこの場に集まっている。
マスコミや保護者からは糾弾される日々だけれども、生徒を目の前に「見抜けなかった自分が憎い…っ!」と言葉を詰まらせながらも語る校長だけが、この場で生きている。そう。立っている。僕らはみんな立っている。それでも、今この場で本当に立てているのだろうか?
そういう話かもしれない。そういう話じゃないかもしれない。どちらでもいい。いや、もうこれは言ってしまおう。いつかは俺もあのお茶のペットボトルラベルに載りたい。逆恨みだと笑うなら笑うがいい。その通りだ。
だから、というわけではないが、今日浮かんだ一句を披露したいと思う。
「人知れず 夫婦水入らず 猫いらず」
なぜこれが思いついたのか?疲れているんだと思う。

縁・カウント

人間が一生で出会える人の数って決まっているんじゃないだろうか。
学校で、職場で、「袖振り合うも他生の縁」と言うけれど、降る袖もなくなった先で行った吉野家のカウンターとかで、好む好まないに関わらず人と出会う。
「縁がない人」も本当に縁がなければ生涯出会わないわけで、そういう「縁のあった縁がない人」も含めて、一生で出会える人としてカウントしても、やっぱり出会いには限度がある。と思う。
就職活動をやっていた時、説明会で隣に座った全く知らない女に「ガム食う?」って言われたことがある。
いきなりも、タメ語も、ガムも、何一つも理解出来なかったから「いえ。大丈夫です」と断った。あれもきっと何かしらの出会いだったんだと思う。
その後、その人とは一度も会っていない。
大学時代、学食でカレーを食べていたら、やはり全く知らない女性が突然テーブル越しに目の前に座った。
「へぇ。カレーとか食べるんだ」
俺に一言そう言って、彼女はまたスッと立ち上がって去っていた。そのあとのことはぼんやりとしか覚えていない。きっと俺はあの時、宇宙人に拐われていたんだ。その記憶を脳内消去されて、代わりにすごく雑に宇宙人が作った記憶を埋め込まれたんだ。そう思っているが、あれも何かの出会いだったかもしれない。
その後、大学のどこかですれ違ったかもしれないが、出会った記憶はない。
大学に入る前の春、浪人時代が終わり、「これから人生の春じゃい」と意気込んでいたら、とてつもない地震が起きて、遊んでいた錦糸町から地元北千住まで歩いて帰ることになり、言うて2時間くらいの距離だったが、えらく長く感じた。明らかに誰もが理解のキャパを超えて、とりあえず歩いていて、もうすぐ20歳にならんとしていた俺は恥ずかしい話だが不安で泣きそうになった。
どこかの橋の上で、やっぱり知らない女の人が私に道を尋ねてきたので、「あぁ…」とか「なぁ…」とか適当に返事をして、方向が一緒だったのでしばらく二人で歩いた。特に何を話すわけでもなく歩いて、「じゃ」ってんで別れ際、向こうが「頑張ってくださいねー」と笑顔で道を曲がって行った。あれだけ不安だったのだけれど、なんとなくその言葉に救われて、やっぱり「あぁ…」とか「なぁ…」と返事をした。
きっと、もう、あの人と会うことはないだろう。出会ったとしてもきっとお互いに分からない。だけれども、どこかで一度お礼を言いたい。
縁なき縁がある人、あなたがいたからなんとなく勇気を貰いました。
そんなことを考えながら歩いていたら、俺は今日、生まれて初めて職務質問を受けた。お巡りさん。怖かった。3人の大男に囲まれて、怖かった。
人が一生で出会える人間の数は、きっと決まっている。縁のある人も、縁のない人も。ただ、縁のない人のなかにも何かしらの縁があり、そこには何かしらの意味があると思う。
俺の一生のうちで出会える人数の合計の「いくら分の3」だったのか。分からないけれど、無駄に人との出会いの総数を増やさないために、ひいては職質を受けないために、ニヤニヤしながら道を歩くことはやめようと思う。

虚無虚無プリン

某日ー
暇さに忙殺されているというよく分からない日々だ。あまりにも暇なので、「暇つぶし」に追われていて、人と会う体力もない。「暇つぶし」を侮るなかれ。十分に体力を使うし、考えようによっては「人生は長い暇つぶし」だと言える。暇つぶしし過ぎた結果、体力がゼロになったとき、人は老衰する。
せっかくまとまった時間があるのだから、ファミコンやってディスコに行って、知らない女の子とレンタルのビデオ見る生活をすればいいのかもしれないが、今あるのはディスコくらいで、「時間はあるが、金はない」というベタな生活を送っている。ちょっと前は「金はあるけど時間がない」日々だったはずなのに…。
あの金は一体何処へ?
あの金をならしたのは俺なのか。
それはともかく、「忙しさ」というのは人それぞれであり、例えば俺は間違いなくきゃりーぱみゅぱみゅに比べたら暇だ。なので、ぱみゅぱみゅの前では口が裂けても「最近忙しくてさ…」というのは言えないだろう。俺だって、そこそこ忙しい時にはほぼ何も考えられないほど、きゃりー虚無虚無になっている時がある。
他人は所詮、体も魂も違う他人なのだから、忙しさにまつわる自慢も愚痴も人に言ったところで比較出来るものじゃないと思う。忙しさ比較は「しない、させない、もちこませない」そういう3原則で日々を生きている。
もっとも、俺が本当の忙しさを知らないだけかもしれない。

某日ー
AKBの総選挙で結婚発表があって、一部ファンが本気でブチぎれるのは分からんでもないけれど、「相合傘 濡れてる方が 惚れている」の歌にもあるとおり、勝ち負けで言えば恋は惚れた方が負けだ。
「投票ありがとう。これからも頑張ります」が聴きたくて、投資したファンは「不倫報告」とか「性病の治療経過報告」とかだったら、一周回って許せたのか。
いつだっておかしい程誰もが誰か騙し騙されて生きるのでしょう。

某日ー
異動。
「田」んぼを「共」に耕す人が変わる場所へ「動」くこと、のような、「田」んぼを「共」に耕す人が変わる場所へ無理やり動かされる人事という圧倒的な「重力」のような。

ビジネスライク

旅の楽しみなるは凡そ飯にありにけり。
中でもビジネスホテルの朝食バイキングはテンションが上がる。
「えぇ!朝から好きなだけ食べていいの?」
賤しい。そう指差し嘲笑する人がいるに違いない。中には私に石をぶつけてくる人もいるだろう。
「石を投げるのは構わない。しかし、この中で朝食バイキングを食べ過ぎたことがある人間は石を置きなさい」
きっと誰しもが石を置くだろう。舛添さんは間違いなく置く。
もっとも朝食バイキングは概ね旅の楽しみを奪う。これがいわゆる「ビジホ朝食のパラドックス」だ。近くに市場があれば、朝早くから名物品なんかを出す店があれば、そこには「うまし」が待っている。にもかかわらず、朝早く起きて、市場には行かず、ホテルのどうでもいいバイキングに行く亡者を私は知っている。私だ。
そこに「うまし」があるのか?
あるのは大抵、パサパサしたパンとモサモサしたパン、もしくはパサパサしてモサモサしたパンがある。「うまし」?ない。
和食にせよ、聞いたことも見たこともないメーカーの納豆、のぼせるほどに浸ったおひたし、残飯みたいな鮭の切り身。「うまし」?ないない。
それでも亡者は皿に乗り切らないほどのおひたしと鮭を取り、お味噌汁を2杯飲んで納豆ご飯を食べた後に、コーンスープを飲みながらパサパサしたクロワッサンを食べて「ちょっとトーストしてみるか」とロールパンを備え付けのトースターに入れて、一口サイズのジャムを3つくらい使って「やべぇ、豪華じゃん」と一人笑う。終いにゃ、暴力的な量のヨーグルトとフルーツポンチを食べて、コーヒーを飲みながら「もう一周行こうかな」と考える自分が怖くなったあたりで部屋に戻り、朝からパンパンになったお腹を押さえて「苦しいよぉ苦しいよぉ」と泣いている自分を恥じる。
そういうバイキング亡者を私は知っている。そう。私だ。
ホテルバイキングの魅力は「美味しくないけど美味しい」にある。これは「美味しいから美味しい」ものよりも数倍魅力がある。「やらせてくれそうだけど絶対にやらせてくれない」女が一番エロいみたいな話だ。いや、違うかもしれない。
旅の楽しみなるは凡そ飯にありにけり。
例えば一泊二日の旅に出たとして、初日お昼・夜ご飯、二日目朝・昼・夜ご飯の計5食、ご当地のご飯を食べるとする。いや、5食食べたら頑張った方だろう。食べられて初日の夜ご飯からの翌朝・昼、「晩御飯も食べたいけれど、帰りの便が…」で、せいぜい3食くらいだろう。
「せめて美味しいご当地メシを多く食べたい」
賤しけれど、そう思うのが人の情ってなものじゃないだろうか。にも関わらず、その旅先での貴重な食事の3分の1をホテルバイキングで潰す。暴君の考えし拷問だと思われるかもしれない。
バイキング亡者は賤しい奴隷なのか?
そもそも「一回の旅行でどれだけ飯が食えるか」という前提が既に完膚なきまでに賤しい。だが、奴隷ではない。むしろ貴族だ。
その気になれば、3分の3美味しいものを食べられるが、箸休めにあえて一発「賤し」を挟んでいるのだ。もはやビジホバイキングは「癒し」であるとも言える。
余裕。気持ちの余裕がビジホバイキングにはある。音を立てて味噌汁をすすっている明らかに寝起きのオジちゃんも、ダメだってホテルから言われてるのにホテルの浴衣で、しかもずるずるな状態でパンが焼きあがるのを待っている髭面も、貴族なのだ。
何をここまでビジホ飯に熱くなっているのか。アパからもインからも金をもらっているわけではないのに。今日はこの辺りで筆を置かせてもらおうとする。
次回はラブホ飯について。
テーマは「ラブホはご飯を食べるところじゃない」です。

東京、鬼門、ときどきうどん

某日ー
夜は風俗嬢で昼は美容師見習いの女の子が「昼も夜も仕事でお客さんにシャワーが熱くないかどうか聞いている」とちょっとした小噺みたいな愚痴をこぼしていた。東京っぽい話だ。
嗚呼。こういう東京小噺はないものか。夢を追っている人間の「明と暗」が描かれたちょっとしたエピソードトークが聞きたい。
ちょっと小さめなライブハウスの雇われ店長で元DJの円盤真和須(えんばんまわす)は言う。
「俺、昼間はシャブ打って、夜は若手DJに夢売ってるんだよね」
これじゃあ「暗と暗」か。
夢喰う東京という言葉はもはや使い古されていて、言うも更なりなのだけれど、じゃあ果たして地方が夢を喰わないのかと言うと、地方は地方で夢を喰うんじゃねぇのかなって気もする。
気がするだけで、特に思うこともないのだけれど。

某日ー
鶯谷に焼肉を食べに行く。
ラブホと無料案内所と焼肉屋と安い飲み屋。鶯谷がカオスなのは山手線的に鬼門の位置にあるからだと思う。そういう説をずっと唱えている。
それはともかく、お店が人気店のため時間制であり、ちょいちょい店員さんが「時間ですよー時間ですよー」を圧をかけてくる。最初は腰が低い感じで「すみませんそろそろ〜」と言う感じだったのだけれど、後半「マジで!マジで時間なんで!」と余裕のない感じで圧をかけてきて中々スリリングな焼肉だった。
もちろん、時間オーバーしているにも関わらずたらたら食っている俺らも悪いのだけれど、最終的にはしびれを切らした店員さんがコンロの火を止めてきた時には思わず笑ってしまった。
「お客さまは神様」だと思わないけれど、焼肉屋で火を止められると、客は思考が止まる。
そういうどうでもいいことを学ぶ。
なんやかんやで飲みすぎて翌日使いものにならず。

某日ー
昨日は飲みすぎたので、昼にうどん、夜はカレーを食す。
そして今日は夕方くらいにカレーうどんを食べる。よくわからないがプラマイゼロだと思う。
あと、適当に生きすぎているな、とも思う。

「でしょうね!」

・・・って話が好きだ。
「自撮りする男は自分好き」みたいな。
「うん。わかるよ。わかるわかる。そういうことだよね」と着地点が見えている話が。
着地点が見えないところに物語の妙があるのは認める。どんでん返しに、衝撃の結末、「え、幽霊が見えるこの子と話せたのって俺が死んでたからなの?」みたいなオチ。
でも、いいんだ。そういうのはもう。
『ハリー・ポッター』は「最終的にヴォルデモート卿を倒すんだろうなぁ」という着地点が。ルフィも「多分最後にはワンピースを見つけるだろう」という着地点が、分かっているから楽しめる。
『ハリー・ポッター』のラストが「なんやかんやでヴォルデモートとハリーが恋仲になる」みたいなオチだったら世界中が焚書しただろう。
『ワンピース』だってそうだ。最終的になぜかルフィがゾロとくっつく。
「おいおいキャプテン。夜はゴム人間じゃないんだな」
「ゾロ。やっと一つになれたな。これが俺の求めていた<ひとつなぎの財宝>だ!(どんっ!)」
(どんっ!)じゃない。同人誌だってもう少し話をひねっているでしょうに。そんな最終回が来た日には、漫画本は日本中で売りに出されて、ブックオフには「コミック」でも「小説」でもない「ワンピース」という棚が出来る。一作品がジャンル扱いされるのは名誉だが、ブックオフでジャンル化されるほど不名誉なことはない。
しかるべき着地点があるというのは、本当に大切なのだ。着地点がないとスキージャンプの選手は飛び続けるしかなくなる。一度飛んだら飛び続けることになるスキージャンプ、理屈はわからないけれど、きっと反重力装置とか背負って無理やり飛ばされるのだろう。25世紀あたりの流刑でありそうだ。じきに空はドローンと罪人で溢れる。
それはともかく。最近思いついた「でしょうね!」話を紹介したい。
人の食事の仕方とその人の夜の作法は似るらしい。
例えば、ガツガツせっかちに食べる人は荒々しいセックスする人で、一品一品少しずつ食べる人は同じ箇所を少しずつ攻めてくる人だとか。
その理屈でいうならば、たくさん食べる人は・・・大食漢。(でしょうね!)
自身がないので思わず自分で「でしょうね!」ポイントを示してしまった。でも分かってほしい。この「でしょうね!」という気持ちには何かしらの快楽物質があると思うのだ。
つくづく分からなかった文化に「食後のコーヒー」というのがある。なぜ、食後にコーヒーないしは紅茶を飲むのか。惰性でやってないないか。そこに思考はあるのか。「食後のコーヒー」の「パブロフの犬」になっていないか。最終的には「パブロフのコーヒー」とか「食後の犬」になってしまわないか。なんだ。「食後の犬」って。お腹いっぱいの犬のことか?
それは・・・かわいいな。
それはともかく、「食後のコーヒー」は支持されている一番の理由には「食事の着地点になるから」というのがあると思う。「あ~飯食った」感というか、食後の一服みたいな。それが何となく慣習になって、今みんなやっているわけで。
裏を返せば、それこそ「パブロフの犬」じゃないけれど、「食後のコーヒー」という人体実験が出来ると思う。つまり「コーヒーを与えたら満腹になったと脳が勘違いする」人を作ろうと思えば作れるはずだ。そこにはきっと新しい拷問がそこに生まれるだろう。空腹の人にコーヒーを渡す、脳が満腹だと勘違いする。しかし、すぐにお腹が減る。またコーヒーを与える。満腹感が出る。コーヒーを与える・・・を繰り返すうちに餓死する。23世紀くらいの終身刑にありそうだ。
ご拝読頂いている皆様はいかが思いますか?
以上、人に話すと「前世がナチスですか?」と言われて全く賛同を得られない話でした。(でしょうね!)

暇人(ひまんちゅ)

某日ー
『マチネの終わりに』という本をかれこれ一ヶ月くらい読んでいるのだけれど、一向に読み終わらない。『マチネの終わりに』が終わらない。もちろん、根気強く読んでいけば『マチネの終わりに』も終わりになるのだろうけれど、もう全然『マチネの終わりに』終わらない。
むしろ俺の『マチネの終わりに』の読み終わりに、ある種の物語がある気がしてならない。読みおえた先で、俺は『マチネの終わりにの終わりに』という本を書くだろう。書かないだろう。

某日ー
『東京女子図鑑』というアマゾンプライムのドラマを何となく見はじめて、いつのまにか全て見終わっていた。『マチネの終わりに』は全く終わらないというのに、『東京女子図鑑』はいつの間にか終わっていた。
俺は地方出身者なので自分のなかに「東京」要素はないし、「女子」でもないし、ましてや今までの人生で「あ、おれ図鑑だな」って思ったことない。生き字引的なニュアンスでも「あなた図鑑ですね」と言われたこともない。要するに、図鑑ではない。
『東京女子図鑑』はそれらどれでもない俺が見ても面白かったのだから、東京の人は、女子は、図鑑は、この作品を見てどう思うのだろうか。
俺は今年で26歳なのだが、いつの間にか友達が子供をこさえてたりする。男友達がパパなっていて驚く。ママになってたら多分もっと驚く。
プロダクティブな人ならもう2人目、「なんなら3人目?」みたいな勢いでポンポン産んでいる。すごい話だ。
しかし、考えて見たら我が家の両親は俺の歳のころにはもう俺をこさえていた。
よくもまぁ。
そういう「よくもまぁ」を色々と考えてしまい、中々に切なくなる話で、東京って本当に人を食う街だなと再認識した。

某日ー
『マチネの終わりに』を読みおえた。
最近の俺は暇なんだと思う。