予定調和のサプライズ

出会っちまった悲しみに今日も小雪が降りかかる。
居酒屋で飲んでいて唐突に始まる知らん人のサプライズ誕生祝いの話だ。
飲んでいると急に落ちる照明。「何事ぞ?」と思っていたら、大音量で流れるバースデイソングや「出会ったことにマジ感謝」的な歌。店員の「本日はお客様の中にお誕生日の方がいます!」という大声。
こちとら出会ったことにマジ迷惑。店員の「あちらのテーブルの○○さまが〜」というアナウンスや、場合によっては、面識も興味もない〇〇さまのスピーチなんかを聞きながら、概ねレモンサワーを頼みたい気持ちと戦っている。
他人の祝い事に水を差すほど野暮じゃない。手放しで祝えるほど善人でもない。
悪いけど、飲んでいる時に他人のサプライズに出会うと「あぁ、事故にあった」と思ってしまう。
先日、人と飲んでいて事故にあった。もちろん、居酒屋に車が突っ込んできたわけではない。どういうわけか、その日は小さな店に3名の誕生日の方。しかもそれぞれ別テーブルにいる同時多発パターン。運がいいんだが、悪いんだかである。
最近、サプライズが予定調和になっていないだろうか。
誕生日に限らず、祝い事とサプライズがニコイチになっている。祝われた3人の中で「今日誕生日だし、これは…サプライズがあるんじゃないかな」と思っていなかった人は何人いたのだろう。何か祝われる要因がある場に呼ばれた時、私だったら「ある」と踏んで出かける。「あるんじゃないだろうか」の気持ちで行って、あったら、それはもうサプライズではない。
逆に誕生日に呼び出されて、お店まで用意されて、行ってみたものの、特に「おめでとう」もなく解散する方が驚く。相手に「ごめん今日俺、金がないんだ。奢ってくれる?」とか言われたら、もっと驚く。「それから、俺、本当は喋れる猿なんだ。明日、森に帰るんだキィ…」と涙を流しながら話されたら、もうその日の主役はこっちじゃなくなる。
別に驚かすことに重きを置いているわけじゃないのは分かるが、じゃあ、真っ向勝負「お祝い」でいいじゃないか。驚かす必要がどこにあるのだろう。
自分がサプライズされそうな時、「ちゃんと驚けるのかしら? 相手をガッカリさせないようなリアクションが取れるのかしら?」といつも不安になる。鏡の前で嘘くさくない驚き練習する。
目の開き加減、「えっー!」の言い方と声量、プレゼントの代わりにブラシを持ちながら、オスカー女優よろしく涙をこらえながら「本当に信じられません…」と震える自分。そういったものを作り上げてから出かける。結果、特に何もなく帰る時、強く激しく女を抱きたくなる。
「今日お祝いするから」
どうだろうか。この柚子胡椒ばりにさっぱりしたおいしい文句。「そこに山があるから」にも通じる論破出来ない感。お祝いする側はサプライズに対する変な緊張をしなくてすむし、サプライズされる側も…まぁ、されないんだけど、やっぱり変に緊張しなくていいのである。
流行は尽く廃れる。1度ブームになってしまった“サプライズ”にもう古臭さしか感じない。
それでもサプライズをしたいアナタにオススメの文句を教える。
「今日サプライズするから」
相手は下手なサプライズよりよっぽど驚くだろう。

有線の有無

有線を引いている家庭は少ない。有線を引いていない店もこれまた少ない。
そもそも、「有線を引く」という言葉が今めかしい表現なのか疑問だ。今日日、有線もコードレスではないのか。コードレスな有線…つまり、無線を引いているのか? 「無線を引く」? どうやって? 見えない敵と戦うってことか?
違う。そんな話がしたいんじゃない。有線の話だ。
有線は脇役である。少なくとも私は有線を聞くためだけにお店に入ったことはない。そんな馬鹿げた話はないからだ。もしアナタの身近に有線を聞くために店に入る友達がいたら紹介して欲しい。私が責任を持って「家で契約すれば?」と諭す。
どこまでいってもBGM、バックグラウンドミュージックである。「ウチは有線が聞ける店です! ウチのウリは有線です!」と元気よく言う店長を見たことあるだろうか。商売をハナから諦めているか、気が狂っているとしか思えない。喫茶店・居酒屋・レストラン…なんでもいいが、その店のキャラクターにあった有線チャンネルが流れている。
音楽と店の雰囲気がマッチしていなかったら? 沖縄料理屋で『津軽じょんがら節』とか『津軽すんわりしょんべん節』が流れていたら少し笑うけど、「ジャンジャン・ベンベン力強い三味線より、スローモーな三線が聞きたい。最悪、DA PUMPでいい」と思うだろう。あと、『津軽すんわりしょんべん節』なんてものはない。多分絶対。
逆に不一致を売りにするパターンもあるだろう。「ウチの有線は違和感があります!」目を引くコピーだ。商売を諦めている印象ばかりがあるけど。
日常に馴染みすぎてついつい見落とす。そういうところに何か発想のヒントがあるのではないかと、最近お店に入ると注意して有線に耳を傾けるようにしている。
「ねえ、話聞いてる?」
ああ、ゴメン。で、何だっけ相談って。
「ひどい。全然聞いてかったの?」
いや、有線を聞いてて。
「はぁ?何、有線って?」
…何って、USENって会社が音楽を流すサービスを、あ、サービスって言っても無償じゃないんだけど、結構チャンネルがあって、昔の洋楽から最近のJ−POPまで幅広いチャンネルが…。
「もういい!帰る!」
こんなことになるやもしれない。近年、「学年ビリのギャルが1年で体重が10キロ減った!」みたいな着地点の分からない本があまたあるが、このままだと「有線聞いたら友達減った!」みたいな本を出せる日も近いだろう。それは避けたい。
だが、有線は面白い。チャンネルの幅が広いのも魅力である。USENのホームページを確認してみる。「80年代洋楽ベストヒッツ」、「懐かしの童謡」、「バロック音楽特選」、「般若心経」、「ユーロビート」、「落語」、「漫才」、「無音」…無音? 
なんだ無音って。バカにしてるのか。しかし、チャンネルがあるということは、ニーズがあるということである。「ああ!無音が聞きたいなぁ!」パラドックスだ。あと、見逃していたけど「般若心経」も疑問だ。誰が? 何のために?
決して自分の意図せぬところで意図せぬ音楽が流れる。その魅力に取り憑かれた。このところ、店に入ると極力スピーカーの真下を陣取るようにしている。
そこが私にとって一番の優先席だからだ。

エロそうでエロくないちょっとエロい話

バレンタインデーはお菓子屋さんが「なんかばっさりチョコを売りたいなぁ」と思ったところから始まった。
「ちまちまとお口の恋人やってたんじゃあ、呼んだらヤラセてくれるオンナと変わらないよ!求められるオンナになってやる!」
そう思ったかどうか分からないが、商売を仕掛けるのに丁度いい海外の文化・バレンタインを見つけた。そして今、GHQに群がる子供が如く「ギブ・ミー・チョコレート!」と日本中の男性達に言わせしめる文化に成り上がった。
縁もゆかりも分からないバレンタインが何となく一般化した。
求められるオンナになったお菓子屋さんは1度海外文化に抱かれたにも関わらず、今度は日本文化を引き合いに出す。まだまだかすめ取れるからだ。
「いいですか?日本人なら、お・ん・が・え・し、恩返し。つるでも出来んだから出来るだろ?」とホワイトデーまで作り上げる。そして今、「チョコとかいいから、可愛くて使えて物持ちのいい自分で買うには勇気のいる高価なもの頂戴」と日本中の女性陣に言わせしめる文化に成り上がった。
『ヴェニスの商人』はユダヤ人の商魂を批判したが、日本人の商魂を目の当たりにしたらシェイクスピアは筆を執るのだろうか。批判されても日本人は「シェイク先輩マジとんがってますね。便乗していいっすか?」とシェイクせんべい、シェイク人形焼き、冷たくておいしいシェイクシェイクなんかを作るかもしれない。
「やめて!俺を商品化しないで!あと勝手にスピアの要素抜かないで!」
執筆したことを後悔するだろう。まぁ、そもそも論でシェイクスピア死んでるから執筆出来ないけど。
その気になれば文化の一つ作り上げることが出来るのが商魂の素晴らしいところだ。バレンタインにクリスマス、最近だとハロウィンはあたかも『古事記』由来が如く昔からあった文化の様に扱われている。
文化のコピー。しかも、都合良くカタチを変えて。
だた、日本人に限らず世界中の人間が文化のコピーをしたがるとしたら、海外で思ってもない日本文化が流行るかもしれない。
大麻が合法なオランダで七草粥が流行する。「ナズナ…?ナイカラ、タイマデイイヨネ」と1月7日はゆりかごから墓場までトリップ出来る日になる。
話は日付が関係ある文化に限らない。もはや慣習レベルのものが伝わるかもしれない。例えば、結婚式のスピーチで言う「スピーチと女子のスカートは短い方がいいと昔から言いますが…」という鉄板ギャグ。
この文化がスコットランドに伝わる。スコットランドの男性がバグパイプという見た目がエイリアンみたいな楽器を演奏する姿を思い浮かべて欲しい。スカートを穿いている。察するに、女装趣味がバグパイプを演奏する第一条件ではないと思うが、あの民族衣装のスカートの中はノーパンだという。
「スピーチト、スカートハ、ミジカイノガイイト、ムカシカライイマスガ…」
「ヘイ、ポール!ミジカスギテ、オマエノポールガ、マルミエダヨ!ハハハ!」
そんな日が来ることもあるかもしれない。世界中どこを探しても、人の結婚式でチンポコ出すことを良しとする文化があるわけないが。
とにもかくにも、最近思うことは、「某お菓子屋さんのお口の恋人って言葉エロくない?」って話です。

終わらない

某日—
集中して原稿を書くために近所の喫茶店へ。
席について、コーヒーを一口すすって、さぁ始めようかしらんとパソコンを開いたら、店の奥の方で「さぁ! ただ今より! カラオケ大会第2部が始まります!」とのアナウンス。早くも負け戦感が漂う。
まだ席に着いたばかり。コーヒーだって熱々。帰るに帰れず。
ちょっとでいいんだ。ちょっとでいいから、静かにしてくれ。
そう思うのだけど、近所のおじいちゃんが北島三郎並に「ンにょほほほほ〜」とこぶしを利かせている。いらないんだ。集中にこぶしは。
落ち着いた時間を求めて来店した客はどう思うのだろうか。
久々に予定の無い休日、コーヒーでも飲みながら読みかけの恋愛小説を読み切ろうと席に着く。心静かに状景を浮かべながら作品の世界に思いを馳せる。
「おお、ロミオ。どうしてアナタはロミオなの?」
「おおジュリエット!」
家柄という名の深く越えることの出来ない溝がため決して叶わない恋に涙を流そうと思ったら、地元のおじちゃんの演歌がイメージを邪魔する。
「ィ与作ゥ!ィ与作ゥ!」
「ンにょほほほほ〜」
家柄という名の津軽海峡でも越えるつもりだろうか。この2人なら易々と越えられそうだ。『ロミオとジュリエット』よりも『酒と泪と男と女』というタイトルの方がふさわしいんじゃないかという気すらする。
よりによって今日初めて来た客はどう思うのだろうか。
雰囲気が良さそう。なんでもこのへんじゃあ有名な店らしい。小腹も空いたしナポリタンとコーヒーで穏やかな昼下がりを過ごそうと入ったら、近所の女子大生がPerfumeのカラオケ。歌・踊り・ルックス、どれを取っても全体的に「これ、水で薄めた?」と聞きたくなるようなPerfume。心なしかナポリタンまで味気なくなる。心がレイプされた。私だったらそう思う。
ともあれ、やることをやらねばならない。わざわざ喫茶店に来た意味がなくなる。イヤホンをパソコンに繋げiTunesを立ち上げる。カラオケ大会に負けないよう音量を最大にして聞く。3分もしないうちに頭が痛くなる。隣の人が食べているハニートーストも気になる。一口欲しい。イヤホンを引っこ抜く。一口欲しい。カラオケよりもハニートーストが気になって原稿が進まない。一口くれないかな。
パソコンの電源を落とす。じっとハニートーストを見る。これだけ物欲しげに見つめていたら、一口くらいくれるかもしれない。私だったら、よく知らん隣の人に一口あげるような真似はしないが、それは私だからであって隣の彼は私ではない。この隣の人はくれるかもしれない。……待てよ?
さっきに比べて静かになっていないか?
ふと店の奥に目をやる。特設即席ステージの上には誰もいない。どうやら終わったみたいだ。
ィようし!ン本腰入れてやるぞ!
サブちゃんばりに鼻の穴を広げてフンガフンガとパソコンを立ち上げる。「さぁ! ただ今より! カラオケ大会第3部が始まります!」とのアナウンス。終わらないんかい!
すぐにパソコンを閉じて、今日の不運を恨んで帰った。
もちろん、自分へのご褒美にハニートーストを食べてからの話だ。
頑張ってない自分にだって、ご褒美はいる。

某日—
『ジャージー・ボーイズ』のDVDを買った。
エンディングで『Descember,1963』という歌が流れる。“Oh, What a night”という歌詞が「終わらない〜♪」と聞こえるもんだから、映画館で「いやいや、終わりつつあるがな」とツッコミをいれながら見たのを覚えている。
個人的に本作を『劇場版テレクラキャノンボール 2013』に並ぶ「フリ−オチしっかりしてる映画」と位置づけている。というのも、劇中タモリ倶楽部でおなじみの『Short Shorts』が引用されるからだ。『Short Shorts』が流れ、オチが空耳で終わる。
この映画の根底にはクリント・イーストウッドによるタモリ倶楽部へのオマージュがあるに違いない。その意味でも未見の人は是非観て欲しい作品である。
観終わった後に同じ感想を持つ人がいたら、「お前ちゃんと観てないだろ?」と小言喰らわすけど。

『ジャージー・ボーイズ』より