空、見たことか

「東京に空がない」と言った智恵子に私は「レンタサイクルならある」と返す。
「そ、そう言われましても」と智恵子、少々悩むだろう。
このところ時間がある時は電車移動ではなく、乗り捨て出来るレンタサイクルで移動している。
暇なのか?いや、忙しい日々の中で、肥満を防ぐための知恵だ。誰がメンテナンスをしているのか、電動アシスト付きで人類の英知が詰まった自転車は故障していることはなく、せいぜい「何かがさびて前輪キィキィ鳴るな」くらい。車で移動するよりかよっぽどエコでもあり、ショウ味な話コ回りも利く。
さて、問題です。ここまでで「智・恵・子・抄」の音が何回出たでしょう?
正解者には柚子胡椒を差し上げます。
ともあれ、20年近く東京に住んでいて、初めて車道の端に自転車用のエリアがあることを知った。それまで歩道から車道を走る自転車を見ては「危ないヤツ」と思っていたが、ルールに則っている向こうからすれば、酔っぱらいながら千鳥足で歩道を歩いている私の方がよっぽど「危ないヤツ」に違いない。
東京はチャリンコで結構どこでも行けてしまうことに気が付いた。新宿から上野までチャリンコを飛ばすと「すべての道はローマに通じる」という言葉は、あながち嘘じゃないなと素直に思える。いや、素直すぎる。
ローマは無理だとしても、君の故郷までは繋がるよ。そう智恵子に教えてあげたい。
絶望に対する妙薬はほぼ嘘の希望だ。あらぬ希望、あらぬ夢、あらぬ未来。頑張れば自転車で新宿からローマに行ける。誰かは鼻で笑う。同時に、違う誰かにとっては絶望に差し込む光になりうる。
新宿・日比谷・秋葉原、大きな町はどこもビルばかりで確かに空がない。でも、なか卯がある。なか卯はいい。うまい。手の届かない空か、手ごろな価格のなか卯か。「同情するなら金をくれ」と昭和の家なき子は言い、令和のトー横キッズが「同情するならなか卯くれ」という今、なか卯も立派な空なのかもしれない。そんなこと言ってないかもだけど。
ある夜、豊洲から自宅のある上野方面までレンタサイクルで帰った。
鳴海大橋の上を自転車で漕いでいると、目の前には高層マンションがいくつもそびえ立って、窓からは家庭の明かりが漏れていた。その明かり一つ一つに生活があり、喜びがあり、悲しみがあり、あと多分、どこかに大谷翔平の実家がある。
橋の上で自転車を漕ぎながら空を見上げる。電線もビルもない。ちょっとあるじゃん。空。
桜を横目に東京の粉モンの匂いに溢れた月島を走りながら、いい時期にチャリにハマったな、多分、すぐ飽きるんだろうなと鼻歌一つ。
でもそれは高村幸太郎が桜若葉の間から見た空を「昔なじみのきれいな空」と言ったのと同じで、なにか現実を見ていないのかもしれない。
地に足がついてないと笑わば笑え どうせ私はサイクルの上。

春のいらぬもの

春のいらぬもの、それは去り行くあなたへ贈る寄せ書きである。
卒業する先輩から後輩に、職場が変わるあの人に、あとは、なんか、まぁ、形式的に送っておくか、後からなんか言われるのもめんどくさそうだし、という人に。
小学生の時、転校が多かった私は寄せ書き貰いがちであった。
お別れ会でお菓子だなんだ食べながらワイワイガヤガヤ、最後の最後に「これみんなで書いたんだ~」と寄せ書きを渡される。わぁ、ありがとう、うっすらみんなが用意しているの気が付いてたけど。
貰った寄せ書きをその場で軽く読む。多分、これは万人がやる。寄せ書きを貰って一瞥もせずに、そのまま鞄にしまったり、手に持ったまま「で、その後のこんなことがあってさ…」とさっきの話の続きをする人はまずいない。どんなに心がない人でも2~3人分読んでから、「あとは大事に家で読むね~」とかなんとか言って、会はお開きに。そういうものである。
寄せ書きには寄せ書きガチ勢とお付き合い勢がいる。
ガチ寄せ書き貰いがち勢としては、圧倒的に後者の方が読んでいて面白い。
“いつもありがとう。新しいところに行っても頑張れ”とかなんとか書かれると、もうほんと、この人、俺のことどうでもよかったんだな。そうだよね、そんなに喋ったことないから書けてこんなことだよね。むしろ、ひねり出してくれてありがとう。そういった感謝の感情すら芽生える。
人が人に言葉を贈る時、心の底から出る言葉こそ素晴らしい。大切な相手、どうでもいい相手、それによって心の底の浅さ/深さは変わるけれど、「心の底からの言葉を贈る」という行為自体には差がない。ゆえに、書くことがない相手に贈る言葉にも、いや、のほうが、言葉に対する真摯さと誠意がある。
“悲しみこらえてほほ笑むよりも、涙枯れるまで泣く方がいい”とかざっっっくりしたことを書かれたら、腕をまくって手の腹で鼻をクィッとしながら「てやんでぃ!お前に俺の何が分かるんでぃ!」と相手を睨みつける。
そこにきて、“いつもありがとう。新しいところに行っても頑張れ”のすばらしさたるや。多くは語らぬ、されど伝わる謝意と激励。私のことを考えに考えて、吐くほど文章を遂行したうえに、他の人が書くスペースを空けておこうという全体への配慮まで。これは誰にでも出来るワザじゃない。
貰う方も貰う方でテクニックが必要になる。「これみんなで書いたんだ~」まで絶対に気が付いてはいけない。なんか、みんな色紙に書いてるなぁ…。そう思ったが最後、素のリアクションなど取れないのである。最近では1人に1つ付箋を配り、最終的に一枚の色紙に張り付けコラージュするパターンもあるが、それにせよ、一度気が付くともう駄目だ。道を歩いていて排水溝の工事か何かしらないが猛烈にクサい何かを一度匂ってしまうとしばらく匂い続けることに似ている。気づくと、気づく前には戻れないのだ。そして、貰った後、色紙は死ぬまで捨てられない。かさばらないけど、地味にでかい。飾るものでもないが、物置に置くのも憚られる。なまじ中央に自画像なんかが描いてあるから、折りたたむのも…なんかな…。そうして机の奥に追いやられ、時々整理をするときに「あぁ…あったなこんなの」と思う昼下がり。
春のいらぬもの、それは去り行くあなたへ贈る寄せ書きである。

一日一新

私、一日に一つは新しいことをするって決めているんだよね。
新潟のとある汚い町中華である人が言った。その頃の私は結構疲れていて、結構疲れている中での地方出張というのは、それはもう大変結構な“結構な疲れ”で、そのことを察した彼女はその汚い町中華に私を連れて行ってくれたのである。
「昭和30年代からやっています!」みたいな外観の店の入り口は、スライド式ですりガラス入りのアルミサッシ引き戸タイプであった。中に入ると「昭和20年代からやっています!」と言わんばかりに全体的にくすんだ茶色、手書きの短冊メニューが店じゅうに張り巡らされていて、店の換気が悪いのかいるだけで燻製になりそう。おじいちゃんオーナーが黙々と作ったご飯を腰の曲がったおばあちゃんがお客さんに運ぶ。我々は大瓶の瓶ビールのうっすら汚れたグラスに注ぎながら、たらたらと話していた。
二人で分けるために大盛で注文した味噌ラーメンが出来上がる。運ぼうとするおばあさんに思わず「代わりに運びますよ?」と私は声がけをして、自分たちの目の前に置き、小皿に取り分けて二人で啜った。たくさん入った野菜の甘味とお味噌の風味に少し溶かれたバターのコク、酔いもさめる温かいラーメンは私が今まで食べた味噌ラーメンの中で一番おいしかった。その時に彼女が言ったのが先のセリフである。スープが熱かったのもある。店が煙たかったのもある。結構疲れていたのもある。その時私は少し泣きそうになった。
食べ終えて一息ついた時、なるほど確かに一日に新しいことを一つやってみるのはこんなにも自分が満ちることなのかと私は少し元気になった。そのことを思い出すにつれて、店の名前くらいメモしておけばよかったと後悔するのだけれど、次に行く時はもう何かの焼き直しになってしまう気もする。
一方、話は最近で。このところ高田馬場へよく通う。浪人時代、第一志望は譲れないことをスローガンに掲げる予備校に通いながら私は早稲田大学を目指していた。そして、遠慮がちな私は第一志望を他の方に譲った。そんなことを思い出しながらJR改札を抜け、早稲田方面に向けて歩く。
この道はいつか来た、来たかった道である。
しばらく歩くとガチ中華の店が増えているのに気が付く。お昼時だったこともあり、どこかに入るか~とぶらぶらするも、店名すら読めない。表にはメニューが飾られているものの、写真もなく見慣れない漢字が並ぶ。とはいえ、食い意地張った人に食い意地の神様は優しいわけで、自分を信じて「ままよ!」と入った店で食べたマーボー豆腐が絶品であった。
うまいなぁ、うまいなぁ、と食べながら、冒頭の言葉を思い出し、そして、気が付いた。
私はあの時と同じくらい結構疲れている。
しんどかった時の言葉を思い出すのは、言葉を思い出すくらいしんどいからであるが、それでもそのしんどさに馴染みがあると、「まぁ、何とかなるしな」と楽になる瞬間がある。絶望から人が這い出る時、必要なのは薄っぺらい希望ではない。目には目を。歯には歯を。絶望には絶望を。
毒が薬になるように、しんどい時にはそのしんどさにヒタヒタに浸る。お浸しもヒタヒタの方がおいしいし、たまにはそういうのも必要なのかもしれない。しかし、ヒタヒタヒタヒタヒタヒタした気持ちに一つ大きな蓋をしてしまうと、どことなく「死」という漢字が浮かぶから、何事も程度が大事である。

ござるでござる。

「天河屋義平は男でござるぞ!」
仮名手本忠臣蔵の十段目、大星由良助の討ち入りがために武器を集めた天河屋義平の店に、捕手に偽装した義士らが集まる。義平の忠義を図るため義士らはわざと詮議して「ここに武器があるはずだ!出さねば妻も子供も殺すぞこん畜生!」とのこと。そこで義平は先のセリフを言う。
「武器なんかねぇよ!殺したきゃ殺せよ!」
すると、なぜか長持ち…現代風にすり替えていうと、Uber Eatsのリュックの中に隠れていた由良助が「ごめんね。少し君を試したんだよ。あっぱれ大丈夫!すごい忠義だね」と言う。
要するに「先輩からヤバイもの預かった後輩、家宅捜索受けても頑張って見せない」説である。
ちなみに、この後、天川屋で討ち入り決起集会として酒宴を行う由良助は義平の妻を「なんなら妾になってよ!」と口説く。義平の妻は「じゃあ、九つの鐘がなったら私のお部屋に」とあしらい、一方、義平にしこたま酒を飲ませて、代わりに自分の床につかせる。九つの鐘がなる。ワクワクしながら布団に入る由良助“平”。何かに触れられた義平は目を覚ます。目の前には大星由良助。びっくり仰天、義平はこう言ったらしい。
「あ!天河屋義平は!男でござるぞ!?」
まぁ、多分、作り話だ。そもそも、十段目自体が壮大なドッキリの場面であり、それこそ作り話感が否めない。いずれにせよホモホモしい話である。
話を本筋に戻すと、義平の覚悟を知った由良助は言う。
「花は桜木、人は武士。とはいうものの、すごいなお前。町人も人なんだな」
「いや、ほんと、勘弁してくださいよ。自分ただの町人っすから。本当は討ち入りも行きたいんすけど、町人ですから…。でも、志だけは持って行って欲しいっす」
「りょ。これから俺らが敵味方区別するときの合言葉、<天>って言ったら<河>って返すってルールにするわ」
「うれぴよ」
そもそもが「忠臣だよねぇ、内蔵助」で忠臣蔵。文字通りの赤穂リベンジャーズであるからしてテーマが忠義なのは分かるのだけれど、それにしても男が男に認めらえるために男らしくするというのはただのヤンキー物語ではなかろうか。義平が義士らにメンチ切るのも「俺は男だぁ!」だし。
○○らしい。その手の言葉はこのご時世使いにくい、らしい。所詮「らしい」が聞いた話にすぎなければ、男らしいも女らしいも、下手したらその人らしいも結局は誰かが誰かに強いている「らしい」なのかもしれない。では、義平の場合、このセリフは言ったのか、言わされたのか。
大切なものを自ら守るのに男も女もないはずだけれど。

百年目

「10年ひと昔」というが、「もうひと声!」と催促された11年は「もうひと昔」とか言うのだろうか。
かれこれ11年出演している落語会がある。先週の金曜日にもその会があった。
主催のYさんと初めて出会ったのは私が大学一年から大学二年に変わる頃、梅は咲いたかの季節だった。春・夏・秋・冬の年4回、その落語会はあり、私はほぼ皆勤賞であった。
大学卒業後、私は小さな映像製作会社に入社した。初めての夏、編集スタジオでディレクターの隣に座りながら、テロップに間違いがないかチェックに次ぐチェック、そしてチェック。眠くなりかけていた頃、久々にYさんから着信があったのでスタジオ外の非常階段に出た。
この階段が一段登り降りするだけで「倒壊する?」というくらい揺れる非常がツネの非常階段で、慌てて飛び出したものだからぐわんぐわんと揺れる。
その揺れに耐えながらYさんからの電話に応える。
「あ、おさんくん?実は勤務先が変わったんだよ〜」「クビになったんですか?」「じゃなくて、担当地域が変わったの」「あぁ、それはまた大変ですね」
人が人に「大変ですね」と返す時は、たいてい何も考えてない時である。その前に「あぁ」がついたのなら、なおさら。
「悪いんだけどさぁ、そこでも落語やってくれないかな」「あぁ、はい。いいですよ」
何も考えてない人が言った何も考えていない返事を真剣に取ったYさんはご丁寧に会場も取った。私も私で当時の上司に「母方の祖母がちょっとやばいみたいなんで、休みます」とかなんとか言って、休みを取った。言うまでもなく母方の祖母は私が小学生の頃に亡くなっている。
そんなこんなで、社会人になってからも落語会は定期的に開催され続けている。テレビの仕事を辞めたり、別の仕事を始めたり、コロナで開催できなかったり、参加メンバーを切り捨てたり、参加メンバーに切り捨てられたり……。もうひと昔にはいろいろ歴史がある。
話は私とYさんが出会う1年前に遡る。
元々プロの噺家さんを招いていたが、ギャラが高いので主催のYさんは「悪かろうとも安かろう」と近所の大学落語サークルに声をかけたらしい。
私が所属した落研の渉外担当と大学近くの喫茶店で打ち合わせ。
「では、この日で」
と、決めた本番の二日前、2011年3月11日の金曜日に東北で大きな地震があった。
翌12日にYさんは渉外担当に電話をした。
「明日、どうしましょうか。やりますか?やりませんか?」
「こんなときだからやりましょう」
間髪入れず、彼女は答えた。翌日の落語会は開場時間から多くの人が集まり、その誰もが一面どころか隅の隅まで記事が震災関連の新聞を読みながら開演までの時間を潰していた。
それがもう、ふた昔の話である。
「昔には数え切れない「もしも」がたくさん どれもが悲しい嬉しい等しい」
てなことを詠んだ歌人が昔いた。嘘だ。いないし。これからはいる。
「こんなときだから」という言葉が全く正しかったのかどうか。それは分からないのだけれど、あの時のあの言葉がなければ先週の会はなかった。これから先の会も。
あと何年やるのだろうか。「10年ひと昔」の次のステージの言葉でぱっと思いつくのが「ここであったが100年目」だが、100年か…。それは少し途方もない話であるけれど、生きているんだから途方もないこともしなくちゃならぬ気もする。