俺の親父はホムンクルス

俺の親父はホムンクルスなのかもしれない。
緊急事態宣言も明けたことなので、先日久々に実家に帰った。主たる目的は老いゆく親という存在の現状を把握するためである。私の親父は20年くらい前に病が故に左の眼球を摘出し、以来、義眼を寝る前に外し、起きたらはめ込むという日々のルーティーンがある。
武将なら何か冠がつくのかもしれないが、しながいサラリーマンである。隻眼の親父だ、独眼竜親父だというのは、どうもその、立派すぎやしないか。俺の名前が鬼太郎でないように、父もまた「目玉の」ならぬ、「片目の」オヤジである。
その日、父は言った。
「最近は朝の儀式が忙しくてさ〜。目を入れて、歯も入れなきゃいけないんだよ〜」
話は冒頭に戻る。それを聞いた私の頭の中に「君のひとみは10000ボルト〜♪」のメロディで「俺のおやじはホムンクルス〜♪」と流れた。俺の知る限り、なにかしらの手続きを通して人間の形になるものは、ホムンクルスか、もしくはフランケンシュタインに出てくるクリーチャー。要するに、人造人間だ。
知り合いに「幼少期、なぜか自分の父親は本当の父親じゃないと本気で思っていた」という方がいたが、齢30も過ぎて「自分の父親って本当は人間じゃない?」と思わされるとは。
地元の有名進学校を出て、慶應義塾大学の法学部に入り、いわゆるメガバンクで勤めた父は、その人生が表す通り冗談を言うタイプではない。わざわざ「朝の儀式」と言うからには、やはりそれはもう儀式なのだろう。暗い部屋で松明を焚いて、床に書いた魔法陣の上に立ち、黒コウモリの脳、ヒキガエルの腹わた、毒蝮の三太夫をグツグツに煮た釜から義眼と義歯を取り出し、目と口に入れる父。その朝のお勤め終わりで、ようやっと人間になる父。そもそも直前の話題をぶった切り、急にそのことを自慢げに話す、父。絶対零度の目でその様を見つめる、母。
というか、どれだけ自分の体から摘出したい人なのだ。そして、その空いた穴に何かを入れたがる人なのだ。そう思う一方で、「老い」において本質を体現しているようにも感じた。良くも悪くも現代の医療技術で人はいくらでも人工的に生きながらえることが出来る。次は何の「義」を取り込み、ニンゲンになるのだろうか。老いに老いて寝たきりの生きているんだか生かされているんだか分からない状態で、色々な「義」を欠いて生きてきた父に私は一言言うかもしれない。
「あんた、いま、立派なホムンクルスだよ」
久々に実家に帰ったことや疲れが溜まっていたこともあり、私は親父より先に眠り、親父より後に起きた。人間の形をした親父にしか会わなかった。
あの時の母の絶対零度の目線はニンゲンならざる姿を知っているからこその目なのかもしれない。

すとしのあいだ

アメリカ人で言うところのハンバーガー屋、イタリア人でいうところのピザ屋、大阪人で言うところのたこ焼き屋のように、日本人には近所のよく行く寿司屋というのがある。大阪の人を日本から除外しているわけではないけれど。
私がよく行くアメ横近くの立ち食い寿司がある。よく行くだけあって、まぁ、美味しいわけだけれども、その美味しさがわかったのが、皮肉にも緊急事態宣言が出た後なのである。
それまではお酒を飲みながら、ちまちま寿司を食っていた。「あ〜ラーメンの舌だわ〜」というテンションの時に寿司屋にはいかない。そんな人は自分に対してマゾすぎる。当然のように寿司の舌の時に寿司屋に行くわけだが、店について板前さんに「なに飲みます?」と聞かれると、条件反射的に「ビールで」と言ってしまう自分がいる。別にビールを飲みにきているわけではない。寿司を食いにきているのだけれども、「なに飲みます?」と聞かれたら、そう答えてしまう。
この「なに飲みます?」までも道のりがあった。最初は「お茶にします?お酒にします?」と聞かれていた。何度か通ううちに板前さんに「こいつお茶飲まないな」と思われた。そういう物語が「なに飲みます?」の中にはある。
さる関係性が出来た後での緊急事態宣言。酒は出ない。座席。というか、まぁ、立ち食いなので自分のポジションについた途端に静かにお茶が出されるシステムの中、酒がない世界で肴を食わず魚を食い、私はようやくその寿司屋の寿司のうまさに気がついた。
それまでの私と言えば、ぶっちゃけ寿司を食いに行っているのか、寿司をアテに酒を飲みに行っているのか分からなかった。お酒を飲まない人にとって、これは「なにが違うんですか?」と思われるかもしれないが、ウンコをする前にお尻を拭くか、お尻を拭いた後にウンコをするかくらい違う。いや、そんなに因果が異なるレベルには変わらない。ともかく、違うということだけを今日は覚えて帰ってほしい。
他の店で同じことを私はやっていないか。ワインを飲むためにイタリアンに行っていないか。マッコリを飲むために焼肉屋に行っていないか。この世のありとあらゆる酒は極論を言えば家で飲める。なににせよ、そういう難しいことを考えずに飲める世界というのがいつ来るのか。そればかりを考えて家で飲んでいる。

いたっけ占い

○89座
闇稼業の「黒」が出ています。まず最初に言いたいのは89座の人って表向きはアウトローと思われがちだけど、内面はちょっとした音に「ひぃ!」っていうくらい小心者だったりします。(失礼なこと言ってごめんなさい!でもそうなのです。)初対面の人にものすごく警戒心を持っているんですけど、一方で「あ、同じ89座の人だ!」と分かると「よう兄弟!」「あにきー!」みたいな感じでしっぽフリフリわんわん状態になります。今週はそういう「あ、同じ89座の人だ!」みたいな出会いが(89座じゃない人も含め)たくさんあります。今はなかなか新しい人と出会いやすい状況ではないですが、「身近な人が気が付かなかったけど実は89座だった」みたいなことも起こりやすいです。恋愛面で言いたいのが、「あ、はい。この人大事」と思ったら敢えて距離を取ってみてください。一歩間違ったらあなたもろとも捕まってしまうかもしれません。

○ぜん座
これから始まる「白」が出ています。今週のぜん座の人は色々とひっくり返すことが多い週になりそうです。紙でも座布団でもなんでもいいのですが、ひっくり返す時に「おりゃー!」と心の中で唱えて下さい。とにかく心の勢いが大事です。小児は白き糸が如しだなんて言いますが、今週は周りの人からの影響を受けやすい週です。恋愛面でもそうなのですが、中には「あ、これは違う」というものもあるかも。笑顔で受け取って、例えば「Not for me」なキャンディーをもらった時みたいに、帰り道でその味が好きな人にあげる。一見するとひどい人に思われるかもしれないですが、挙げた人、もらった人、もらった人からもらった人がそれぞれ幸せになる。世間的にはダメかもだけれど、そういう常識も含めてひっくり返してみてください。「え、こんなにひっくり返してもいいのかしら?」と思うかもしれないけれど大丈夫。みんなあなたがひっくり返すのを心待ちにしているから。

○胡座
休憩の「縁」が出ています。星座の中でも…ってアレ?あなた星座じゃないですね。「あぐら」ですか?そうですか。あ、てっきり「緑」かと思ったら「縁」でした。へり?畳の?あぁ、踏むなって言いますよね。じゃあ、踏まない方が吉だと思います。はい、次。

○正座
そうきましたか。ちょっと私がツンとしたから、居住まいを正しましたか。え?なんですか?「星座だけに?」って?やかましいわ。次。

○結跏趺坐
これはヨガや仏教の座り方の一つです。足の甲を反対側の脚の太ももに乗せることをいいます。出来る人は体が柔らかい人です。「私は体が柔らかいぞー!」と言いながら結跏趺坐をしてみて下さい。周りにバカだと思われます。次!

○プチョヘン座
「手をあげろ」?嫌です。
お腹が痛くなったので帰ります。

アメとハレ

赤提灯に明かりが灯り、飲み屋が飲める場所になっている上野のアメ横をそぞろ歩く。
宣言が開ける前から闇居酒屋はやってるわ酒出してるわ今なおBGMが『うっせぇわ』のリピートで「いや、それがうっせぇわ」なアメ横であったが、ゆくアメ横の流れは絶えずして、しかも元のアメ横に戻りつつある。業の煮こごりみたいな街である。
というか、概ね飲み屋街は業の煮こごりであることが多い。
昔、知り合いに連れられて二丁目のオカマバーに行った時、常連客同士が「カミングアウト話」になった。
カウンター向こうでコップを洗う熊系のママの話が今でも忘れない。
ママの実家は母一人、姉一人の三人家族であった。高校時代に自分がゲイであることに気がついたが、しばらく家族には言っていなかった。
高校を卒業したある日、お姉さんと二人で台所に立ち、洗い物をしている時に「あ、今だ」とママは思ったらしい。今言わないと多分一生言えない。皿を洗いながらの一大決心であった
「お姉ちゃん、実は私ゲイなんだ」
「えー!そうなんだーてっきりバイだと思ってた!でも安心して。私もみんなにキャバクラで働いてるって言ってるけど、本当はSMの女王様だから」
そこそこ気合い入れてカミングアウトしたのに、そのカミングアウトが若干霞むような姉の告白にママは一体どう思ったのだろう。ママがちょうどお店のコップを洗いながら話していたので、よりその時の、その場を、思いながら話を聞いていた。
人間は食べることからは離れられない。これすなわち皿洗いからも逃げられないさだめだ。仮にゲイバーで勤めることにならなくても、ママは台所で食器を洗うたびにその日のことをふと思い出す。もしお姉さんから否定されるようなことや心無い理解をされていたら、皿洗いが嫌いになっていたかもしれない。
なんにせよ大抵「今だ!」って時は日常の一瞬だったりする。その瞬間がいい思い出になればいいが、悪い思い出になる可能性も盛大に含んでいるわけで、フラッシュモブとかやってまでプロポーズする人は追々日常に思い入れなんかしたくないぜ、という人々なのだろうか。
先日知り合いの結婚式に出た時に、冠婚葬祭は日常との距離を作るためのものだなと静かに思った。
などとどうでもいいことを考えながらアメ横を私は今日も歩く。ハレの日も。そうじゃない日も。