今昔四方山奇譚「人を喰ったような鬼」

むかしむかし。

とても気を遣うことで有名な赤鬼と青鬼がいました。

二人は同じ村で育ちました。ある時。

「俺らみたいなのがふた鬼いると人間は気を遣うに違いない」

そういう立派な理由で、どちらから言い出すわけではなく、二人して村を離れました。

村長は二人の行く先の村にそれぞれ手紙を書きました。

「どちらの鬼も普通に人を喰います。なんかごめんなさい。うっすら助かったと思っている自分がいるのも事実です。それも込みでごめんなさい」

手紙をもらったそれぞれの村の村長はそれぞれの温度で「マジか」と思いました。

赤鬼が新しく食う寝るところにしたのは、海に近い漁業で栄えた村です。

村の者たちは人間じゃなくて、魚を食べればこれ幸いと、とれたての魚を目の前に出したのですが、赤鬼に「ごめんなさい。魚、苦手なんです。本当にごめんなさい」と本当に申し訳なさそうに断られたので、諦めて食べられることにしました。

この村で最初に自分を犠牲にしたのは、子を持つ母たち。

「子どもを食べるなら、私を!」

涙ながらにそう訴える母たちを赤鬼は頭を下げながら食べました。

「ごめんなさい。こうしないと僕が死んじゃうんですぅ」

村の男たちは「愛する人を失うのは辛い」と村を離れました。

青鬼が新しく食う寝るところにしたのは、山に近い窯業で栄えた村です。

村の者は始め硬いお茶碗を投げたり、窯に青鬼を閉じ込めて火入れをしたりしました。

その度に「痛い痛い痛い痛い!」とか、「熱い熱い熱い熱い!」とか、ちゃんとリアクションをとっては怪我や火傷をする青鬼を見て「なんだかコッチが後味悪いよ」と諦めて食べられることにしました。

この村で最初に自分を犠牲にしたのは、釜の男たち。

「普段あれだけ熱いの我慢しているんだから、食べられるのくらい我慢できるだろう」

少しトんでいますが、「そうだね」と納得した周りも周りです。

ある者は子と妻を思い、ある者は母を思い、思い思いに涙を流す男たちを青鬼は頭を下げながら食べました。

「ごめんなさい。こうしないと僕が死んじゃうんです。あの、痛かったら言ってくださいね。ゆっくり噛むので」

「青鬼さん。お気遣いありがとうございます。その方がむしろ地獄み増す気がしますけれど、って、痛い痛い痛い痛い!」

村の女たちは「1日一人で我慢してくれるのはありがたいのだけれど、逆に毎晩誰かの旦那の『痛い痛い痛い痛い!』を聞くのは、精神的にくる」と村を離れました。

漁業で栄えた村の男たちと窯業で栄えた村の女たちが逃げた先は、奇しくも二つの村の中間地点で、似た境遇と愛するものを失った男たちと女たちは互いに恋に落ち、新しい集落を築き上げました。

その一連のくだりを見ていた赤鬼と青鬼は思いました。

結局、人間というものは、本当に愛する人を見つけたとて、その代わりなんてものはいくらでもいるのかもしれない。だとすると、身を挺した結果、ただ食べられるのを待って怯えて暮らすこの人たちの愛こそ、もしかしたら尊いものなのかもしれない。

そうか、真の愛とは自己犠牲のことなのか。

そのことに気がついた時、赤鬼は浜の女たちに「ご迷惑をおかけしました」と。

青鬼は山の男たちに「ひと思いにパクッとやったほうがよかった良心的でしたね。失礼しました」と。

食われずに済んだ人々にそう告げて、ふた鬼は同じ岩屋に隠れて行きました。

鬼という生き物の人間食いたさ。それを押し殺しふた鬼はゆっくりゆっくり餓死していきました。

人間という生き物の「その結末、早めに出せたんじゃね?」さ。それを押し殺し二人を祀った祠を作りました。

いまでも時々山から聞こえるあの「グ〜」っという音。

ふた鬼の腹の虫が鳴いているから明日は雨が降る、と祖父から教わったものです。

そこに迷惑メールがあるから。


某日ー
登山家のジョージ・マロリーが「なぜエベレストに登るのか?」聞かれ、「そこにエベレストがあるからだ」と答えた話はあまりにも有名であるが、あれはちょっと不条理すぎる答えだと思う。カミュの『異邦人』で「太陽が眩しかったから」という梅雨にはとても喜ばれそうな理由で人を殺すムルソーよろしく「先生、それはちょっと…」感がある。
マロリーの言葉にはこんなものもある。

It is not the mountain we conquer, but ourselves.

「乗り越えるべきは山じゃなくて、自分自身」てなところだろうか。昔、とても尊敬している人から教えてもらった言葉だ。登山家のこの言葉には重みがある。実がある。

一方の「そこにエベレストがあるからだ」である。記者相手に。大人としてどうだろうか。不機嫌だったのだろうか。相手が全裸に蝶ネクタイだったのだろうか?もしくは幻冬社の人だったのだろうか。

「なぜエベレストに登るのか?」「エベレストに登りたいからだ」それくらいでいい。見出し語は「マロリー、エベレストに登りたいからエベレスト登る!」というすごくバカバカしい、というか、バカ丸出し見出しになるけれど、それでもいい。

大人なんだから、も少し気を遣おうよ、という話だ。しかし、かく言う私も大人であるからわかる。「答えんのめんどくせぇよ」という圧倒的なめんどくさ力があったのだ。言っても分からない人は言っても分からないくせに、無駄に聞いてきて、それが自分の思う応えと違った場合は、無理やり言葉を引き出して自分の納得させる側に答えを引き出そうとするのである。そんなものに付き合うほど暇じゃないのだ。

そんなこんなで、この間、山に登った。なぜ?そこに山があったからだ。

山登りはいい。何も考えなくていい。

「山のてっぺんに行きたいなぁ」

その小学校2年生みたいな願いを一つ胸に頂きを目指すのである。山を登っている時に、「あぁ、年金制度ってやっぱ崩壊するのかなぁ」とか、そういう思いは消えるのである。登山という健康的な活動をしている時に、「自民党もなぁ…」みたいな不健康ことを考えずに済む。

山を登りながら、「これは何かのネタになるかな…」と探している自分が少し好きになった。

某日ー

やたらと迷惑メールがくる。

そのメールのタイトルが「あなたのことを応援しています!」とか「夢は諦めなければ叶います!」とかやたら俺を励ましてくる、不思議な迷惑メールで、疲れてんのかもしれないが、そこそこ元気が出る。

元気こそ貰えるが、そこそこ鬱陶しいのも事実。

松岡修造に似ている。

松岡修造に元気をもらっていると思うと、少し面白いが、松岡修造に迷惑をかけられていると思うと、少し…迷惑だ。

中には「あなたへの支払いのたまった年金が725億円あります!」という、「あれ、これ、おれ、全日本人に2000万の貯蓄させてない?大丈夫?」と思うものもあったり。迷惑メールにも五分の魂がありますね。

 

オムカレーとナポリタン

初めて入った吉祥寺の知名度のある名もなき喫茶店にて。

昼どきで、何を食べようかしらとメニューを見ていたら、隣の客がオムカレーを注文。出てきたオムカレーは当たり前だが、オムライスにカレーがかかっていた。

でも待てよ?これは本当に正しいのか?

オムライスはオムの中にライスが入っているもので、決しておにぎりみたいに「ライスの中にオムレツが」というメニューではない。だからして、オムカレーなるものはオムライス理論で言うならば、オムの中にカレーが入っていないとそれはオムカレーではない。カレーライスがライスの上にカレーがかかっているものだとしたら、隣の客が頼んだものは正しくは「カレーオム」ではないか。

とはいえ、「カレーオムください」と言って、「聞き馴染みがないなぁ」と思った店員さんが気を遣ってパワーボムを仕掛けてきたら嫌だ。今までの人生でパワーボムされたいなぁ、と思ったことがないし。喫茶店はパワーボムを求めに行くところではないからだ。

どうでもいい話だと思われるかもしれない。その通り。どうでもいい話をしている。

喫茶店に求めに行くのは、どうでもいい時間とちょうどいいナポリタンだ。

あらかじめ大量に茹でられた麺を冷蔵庫から適当に出し、適当に味付けし、適当に火を加えた結果、奇跡的にちょうどよくなったナポリタンを食べながら、どうでもいい時間に揺蕩い、当たり前について考える。

当たり前と思うものこそ丁寧に、当たり前さを当たり前然とさせるように縫っていかなければ、いとも簡単にほどけてしまう。それくらい当たり前というのは維持するのに体力を要する。ちょっと家族と呼ばれるものにも似ている気がする。「当たり前のことを言うぞ!当たり前を当たり前だと思うなよ!」そういう言い回しのややこしい教えがオムカレーにはある。

人生が喫茶店のナポリタンだったらいいのになぁ。色々なことが適当に適当に進んでいって、奇跡的にちょうどよくなっていったらそんなに素敵なことはないけれど、人類は麺類じゃないから、ナポリタンみたいにうまくいかない。

『牛褒め』という落語で、バカの与太郎が最近家を建てたおじさんのところへ行って、家を褒めるくだりがある。「建てるのにどれくらいかかったの?」と聞かれ「なんだかんだで三ヶ月はかかった」と答えたおじさんに返す与太郎のセリフがいい。

「でも火事で燃えれば20分だ」

件のくだりがオムカレーなのかカレーオムなのか分からないけれど、笑えるセリフの中にはいつだって地獄より残酷な真実がある。

初めて入った吉祥寺の知名度のある名もなき喫茶店にて。そんなことを思った。

三十而立?

恥ずかしながら「マンスプレイニング」という言葉を初めて知った。

新手の前戯の名前ではない。

「Man(男性)」と「explain(説明する)」が合わさった造語で、男性上司なんかが、意味もなく横柄に、上から物を説明することを指すらしい。「お前こんなことも知らないのか〜」ってなやつだ。初めて聞いた言葉はすぐに誰かに広めたい。

ただ、難しいのは、これを例えば飲み会なんかで女性に言ったとする。

「マンスプレイニングって知ってる?」

「文春砲のこと?」

「違う。アナグラムしたらなりそうだけど」

「じゃあ知らない」

「お前こんなことも知らないのか〜」

…と、ミイラ取りがミイラならぬ、マンスプレイニング防人(さきもり)がマンスプレイニングになりかねないからだ。そもそも「マンスプレイニングって知ってる?」がかなりマンスプレイニング臭がする。略して、マン…いや、やめた。下品だ。

直接人に伝えようとするから問題が生じるのかもしれない。自然発生的に周りが思わず発言に興味を持つようなシチュエーションを作ることが大切なのかもしれない。

例えば、駅なんかで何かに「うわぁ!」と躓いてよろけた後に、「転んでませんよ?」みたいなテンションでスッと歩く人がいる。アレの応用。

わざと何かに躓いて「うわぁ!マンスプレイニング!」とよろけた後に、スッと歩く。

それを見ていた女性が思わず声を掛ける。

「あの、お兄さん」

「はい?」

「いま、転びかけているとき…」

「いえ、転んでいませんよ」

「え、ああ。転んではいないのはいいんですけど。なんか言ってましたよね?」

「え、言ってました?転んでないですよ」

「言ってました言ってました。あと、転んでないのももういいです。わかったんで。なんか、ほら、ウーマンリブみたいな」

「ウーマンリブ…?あぁ、広い意味ではそうかもしれないけど。マンスプレイニングのことですか?」

「そうそれ!なんですかそれは?」

「こんなことも知らないのか〜」

だめだ。もう男は死んだほうがいい。女性が単性生殖して地球が繁栄していけばいい。

ミジンコだって単性生殖してるんだから、人間だってその気になればできるはずだ。

このあいだ、高校の同窓会に行った。

高校を卒業して10年。女性はみんな美しくなっているのに、男がもうほんと、なんか、全体的にだめーな感じが隠しきれていなくて、そのだめーな感じをだめーな感じでコーティングしていて、自分を含め、もはやだめーが服着ている感じがすごくて目も当てられなかった。男の人はいくつになったら、あのだめーな感じが取れるんだろうな。それとも、その場にだめーな人たちが集まっていただけなのだろうか。

子曰く「30にして立つ」だけど、男の人ってそこまで歳とらないと立てないのかぁ…という諦めがちょっとある。

せめて、マンスプレイニングをするような男にだけはなりたくない。

ちなみに、聞いて面白かったのは、マンスプレイニングという言葉ががアメリカで流行ったら、いわゆる「お前こんなことも知らないのか〜」てな男性が減ったという。ソシュールという学者が「言葉があって概念が生まれる」というようなことを言っていたが、まぁ、そういうことなんだと思う。

え、ソシュールって誰かって?そんなことも知らないのか〜。