来年のこと

「皮算用ですよ」は言うが「とらぬ狸ですよ」とは言わない。
「塞翁が馬ですよ」は言う。急にシリアスな会話の途中で「人間万事ですよ」と言われたら、「人間…バンジー?え、ふざけてる?」と喧嘩になるからだ。
そういう諺、古事成語の言葉を分けた時、後ろの要素を人は言いがちなのかもしれない。まぁ、中には後ろの要素だけ言われてもポカンとするのもある。
「後門の虎ですよ」
音だけ聞いたら「アヌス・オブ・ウルフ」…い、意味はなんだろう…。
『サーキットの狼』に並ぶ二大狼のひとりで、「アナル業界であの人には逆らわない方がいいよ…」と噂される人の話をするときに使われる言葉。転じて…まぁ、意味が転じる以前に、そんな会話そうそう存在しない。でも、同様に「前門の虎」も独立では使わない。
後ろから前からどうぞ、な言葉はないのか。
「(情けは)人のためならずですよ」と言われたら「はぁ?急に説教ですか?」となるし、「(二兎追うものは)一兎も得ずですよ」と言われても「はぁ?私のこと何か知っていて言っています?」となる。特別私が喧嘩っ早いわけじゃなくて、兎にも角にもラフテーも、後ろは結構、説教臭い。かといって、前半の「情けは〜」とか「二兎追うものは〜」と言われても、それはそれで結構クイズっぽくなってしまう。
後半にくらべて、前半は言葉としてキャラが立っていないのも、前半が使われにくいのもある。「来年のことを言うと鬼が笑う」なんてそうで、例えば、こっちが何か来年のことを言っていて「来年のこと(を言うと以下略)ですよ」と返されたら「いや、そうだよ。来年のことだよ。言ったじゃん最初から。え、話聴いてた?」と喧嘩になる。あれ、俺、やっぱり、喧嘩っ早い?
しかし、「皮算用」が一単語で独立するくらい、「とらぬ狸」も結構キャラ立ちしている。先の金の話は往々にして下品なのだから、「皮算用」だなんて如何にもな言葉を使うのではなく、「とらぬ狸」くらいの愛嬌で行こうぜ。
というわけで、来年は「とらぬ狸」を布教していこうと思います。広がればいいと思います。
ま、「来年のこと」って言うけど。

某日―
上野のアメ横は大体この時期、歩けないほどの人通りだが、今日はさもありなんな人混み。カニ・エビ・マグロのありがた食材を売る路上販売も数えるくらいしか出ていない。
今年は風物詩がどれくらい減ったのだろうか。
年の瀬が苦手な私ですら、年の瀬感のなさに少し寂しさを覚えるのだから、年の瀬が好きで好きで一年365日エブリディ年の瀬だったらいいのにと思う、新手の末法思想みたいな思想の人はとても寂しいだろう。そんな奴いないかもしれない。
思えば数ヶ月前、人々が外に出られない頃、誰もいないアメ横をよく歩いていた。出歩くなって言われているから、アメ横には人ひとりおらず、商店も飯屋も軒並み閉まっていた。その光景を見ている自分はまぁ、出るなのタブーを犯しているわけだけど、そのディストピア感に比べたら街は元に戻ったな、と思っていた。
とはいえ、今日行くアメ横流れは絶えだえ、しかも元のアメ横にあらず。淀みに浮かぶ泡沫…つーか、飛沫に店が久しくとどまりたるためしなしで、だいぶ新しい店が増えていた。「世の中にあるすみかと、かくのごとし」と紀貫之は言ったけど、店の面先も言うもさらなり。
「あ、このお店変わったんだ」
その言葉の意味が全く変わった。今年は風物詩がどれくらい減ったのだろうか。
年の瀬は無駄に人々が騒ぐ。道ゆく浮かれている人を見ては「年が変わるだけで何か変わるんですか?」と胸ぐらを掴みたくなる。でも今年は年が変わるだけで、何かが変わればいいな、と思わないこともない。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、らしいし。世の中が無常ならば、今の状況だって、きっと無常。それはそれで希望ってもんだろう。
まぁ、「来年のこと」ですけど。

真っ赤な嘘

夏が来れば思いだすものに「はるかな尾瀬」という歌があるが、あれは夏の尾瀬が好きな人が同じ尾瀬好きと「尾瀬の一番いい季節は?」という話で盛り上がり、相手に「春かな…尾瀬。尾瀬は春だよ…」と答えられ、結局仲たがいしてしまったのが夏の思い出がある遠井空さんの歌だとずっと思っていた。
というのは真っ赤な嘘で、私は冬が来れば思い出す浪人時代、鈍い空。このごろの東京は空を見上げれば遠く青く、浪人生だった時分も同じくらい空は青かったはずなのだけれど、その空の青さが身分不相応な気がして申し訳なく、外套に首をすぼめて下ばかり眺めて歩いていた自分はもう10年前にも関わらず、冬が来れば思い出す。
平成の遺物に両足を突っ込んでいるセンター試験の国語は「小論文―物語文―古文―漢文」という四部構成で、しばしば言われることなのだが、「物語文に正解はあるのか/ないのか」論争というのがある。この文章を書いた筆者の気持ちを当てよ、というやつだ。昔タモリ倶楽部で現役の東大生とセンター試験で自作が出題問題に取り上げられた小説家らとが、国語の問題を解き、点数を競うという企画があった。蓋を開けてみれば、東大生が全問正解、作家人はボロボロという結果であった。確か、谷川俊太郎だったと思うが、違うかもしれないが、孫の宿題に自分の詩が出て、「この時の筆者の気持ちを考えなさい」のような問題を代わりに解いたら、先生にペケを食らったという話もある。
このように物語文の正解はあくまでロジカルに読み解ける凡その期待に沿った正解であって、筆者の気持ちや伝えたいことというのは、本当はその選択肢の中にはない。ことが多い。その一行を書いている時の筆者の気持ちは「日本文學界に歴史を残すぞ!」というものから「お腹すいたなぁ」とか、締め切り間際で「編集者ににらまれながら書くのは嫌だなぁ」とか、「うんこしたいなぁ」とかそういうしょうもない感情だって色々あるはずで、正しい解を見つけよ、というのが土台無理な話である。
ただ、この世にはどうやら正解とされるものはあるらしい。是非はともかく、それは世の中では傍目と呼ばれる。何かを逸したことをすると傍目は「それは間違っているよ」と平気で言う。極論を言えば、人殺しが是な世の中では、毛唐に手を下さなければ非人の時代だった。自分の正解と傍目の正解は異なるのだから、傍目、曰く「それは間違っているよ」こそ、はた迷惑なことはない。
正解と正解とされるものは鉾と蒲鉾くらい違う。蒲鉾で戦場に行く人はいない。にもかかわらず、正解とされるものに支配されている人は多い。きっと遠井空さんだって、なんとなく「尾瀬=夏」のイメージがあっただけ。だって周りがそう言ってたし?
空さん曰く、時々思うようです。「どうしてあんなことで意固地になったかな。春でも夏でも。尾瀬が好きだったのは一緒だったし、秋でも冬でもよかったのにね。別に尾瀬じゃなくてもよかった。あの人と一緒だったら。どこでも楽しかった。わざわざ別れなくてもよかったのにね」と。
それも真っ赤な嘘ですが。

蛇の骨スープ

 
某日―
まさかこんな年になるだなんてねぇ。
年の瀬も近づいてきて、誰も彼も口々にそんなことをいう。あの手のことを言う人は、いままで思う通りの一年を幾度となく過ごしてきたのだろうか。
「あぁ!今年は思った通りの年だったなぁ!」
鬼は笑わないかもしれないが、そんな風に今年のことを言われると私は笑う。よっぽどのことがない限り思った通りのことづくめにはならず、大抵は思ってもみないことに出くわす。思ってみたことに比べて、思ってもみないことの方が記憶に残るのは、当たり前だけど思ってもみなかったからで、大抵思っても見たことは実現したら、「それ見たことか」で片づけられて忘却の彼方へ行く。
地震雷火事親父。「4大怖いものの一つに親父~?」と思っていたが、我が家の親父は結構怖い。それは、哀川翔と竹内力に白竜を足して青龍刀で割ったみたいな話ではなくて、どちらかというと怖くない親父。がウチの親父。そんな怖くない親父からある夏の日メールが来た。
「熱くなってきましたがお元気ですか?“今日付”で、今の会社をクビになったので連絡をします。来週から新しい仕事を探します!では、元気で!以上、取り急ぎ 父より」
震えた。今年聞いたどの怪談よりも。本当の恐怖というのは、やだな~やだな~と思う間も、怖いな~怖いな~と思う心の準備もないまま急に来る。実家には未だに再就職先の見つかっていない親父がいる。怖い話だ。地震雷火事なみに。最近、実家のことを私は心の中で事故物件と呼んでいる。
 
某日―
仕事終わり。浅草の「まつり湯」というスーパー銭湯のタダ券の期限が年内だったので、行くことに。
同じ浅草にあった「蛇骨湯」という魔女のスープみたいな名前の銭湯はいつだったか閉じてしまった。浅草という土地柄もあってか、普通に背中に金太郎が鯉を捕まえてる立派な彫りモンをしている人なんかが結構いた。というか、行くと必ずヤクザはいて、ヤクザはヤクザで別に偉そうにするでもなく、気を遣うでもない。
まつり湯はスーパー銭湯らしく、中に居酒屋があったり、漫画が読めるスペースがあったり。お風呂も色々、男湯のサウナも2種類。露天風呂からはスカイツリーが見える。男湯内に設置された韓国アカスリにはいい感じに女性を卒業した、つまり、まぁ、エロいサービスにならない感じのオモニたちが笑顔で並ぶ写真と「ご希望の方は電話で」というざっくりとした指示。しばらく風呂に浸かったのちに、漫画スペースで「鬼滅の刃」を延々と読む。あぁ、全力で俺、今しなくていいことしてる。スーパー銭湯はひたすらにそういう時間が過ごせるのがいい。
 帰り道、今は亡き蛇骨湯の前を通る。寅さんのタコ社長みたいな爺とヤクザと地元の子供が平等に同じ湯船に浸かっている画は、それはそれでよっぽど魔女のスープより現実味がなかったが、それが蛇骨湯の味だった。いつだって失ってからことの大切さに気が付く。

夫婦善哉気味の漫才

かなめ・いつか「はいどーも」
かなめ「夫婦漫才の妻・鹿目(かなめ)ひかりです」
いつか「夫婦漫才の夫・未来(いつか)ひかる。二人合わせて」
かなめ・いつか「鹿目ひかり・未来ひかるです〜」
いつか「普通ね、夫婦漫才って行ったら、未来ひかる・ひかりとかですけどね」
かなめ「昭和のいる・こいる師匠とかね」
いつか「あの人たちは夫婦じゃないけどね」
かなめ「事実婚なんです私たち」
いつか「そ、籍入れてないんですよ」
かなめ「別に籍入れてなくても困らないですけどね〜」
いつか「はいはい」
かなめ「今日の座席埋まってないと困っちゃうんです〜」
いつか「ここ、笑うところですよ」
かなめ「しかもね、私たちセックスレスなんです」
いつか「そうですね〜ま、私たちの問題ですけどね」
かなめ「ま、セックスレスはね。私たちの問題ですけど。社会の問題といえば、ワイヤレスイヤホンですよ」
いつか「その話の展開。目からうろこが落ちます」
かなめ「耳からイヤホンが落ちる話ですよ」
いつか「はいはい」
かなめ「最近よく聞きますねー。駅のホームで」
いつか「乗降車時、ワイヤレスイヤホンが落ちて電車が止まる事故が多発してます〜ってやつね」
かなめ「そう。でも私思うんです」
いつか「なにを?」
かなめ「イヤホンしてるやつ、それ聞こえてないだろ〜って!」
いつか「はいはい」
かなめ「ワイヤレス落としてないとアナウンス聞こえないですよね」
いつか「そうですね」
かなめ「ワイヤレスから音してないとき、その人はワイヤレスを落としてるんです」
いつか「よしなさいっ」
かなめ「なにその返し?ツービートのきよしさんみたいな」
いつか「いや、ちょっと憧れていて…」
かなめ「まぁ、あの二人もセックスレスでしょうからね」
いつか「でしょうね。セックスフルなイメージないですね。ってなんだよセックスフルって!」
かなめ「にしても、アナウンスですよアナウンス。ね。ワイヤレスしてる人には聞こえない」
いつか「不思議アナウンス」
かなめ「そう。今はまだ注意喚起ですよ。でも、そのうち多分、陰口とかになりますよ。ワイヤレス落として電車止める馬鹿者の皆さん〜まだ人に迷惑かけるつもりですか〜恥ずかしくないんですか〜。あなた、恥ずかしくないんですか〜って。でも、本人は気がつかないで。周りがニヤニヤ指差してね」
いつか「ホームでの指差し確認ですね」
かなめ「え、うん。まぁ、そういうのはいいんだけど」
いつか「ごめん…」
かなめ「次第にエスカレートしてね、そのうち怒号に変わったりするんです」
いつか「え〜次は〜3番線より〜急行が…ってオイ!お前!お前だよお前!ワイヤレス!お前このやろう!お前がワイヤレス落とす前に、俺が三角絞めで落とすぞお前!」
かなめ「あの、ほんと、うん。そういうの、いいから。ちょっと、その、うまさ、みたいなの、出すの」
いつか「よ、良かれと思って…」
かなめ「そういうのがほんと、生理的に…」
いつか「ごめん…」
かなめ「まぁ、でも、ワイヤードイヤホンの人もアナウンスなんか聴いてないんですけどね。結局ね、注意喚起したって、人は聴いてないですよ。自分のことばっかり。そういう自分自分をもう少し減らしてほしいですよ。ワイや!ワイや!をね。目指すところはワイやレスです」
いつか「そういうこと言うんわワイやど!」
かなめ「やめさせてもらうわ。漫才も。アタイらの関係も」
いつか「ここ、笑うところですよ」

でないの唄

本屋で本を買う楽しみの一つは目当てでない本に出合うことだったりする。でない本との出会い。その一つに「装丁買い」というのがある。ものは器で食うという。多少モノがまずくても器が立派だったらなんとなくおいしく感じるのが人だ。となると、本でいう器は装丁だろう。装丁が立派だったら面白そうに見える。多少中身がまずくてもインテリアとして飾っておけばいい。絵画を飾るよりかよっぽど安価だし。
本屋に行ってお目当ての「である本」ついでに「でない本」買う。家に帰って先ず開くのは「でない本」である人がいる。私だ。ラーメンが食べたくてバーミヤン行って、気が付いたらチャーハン食べているタイプの人がいる。そう。私だ。これはラーメンの器よりチャーハンの器がよりよく見えたわけではない。所詮バーミヤンの器。ギリギリ学校給食の食器より上、くらいの多分落ちても割れない器だから、別に器で食うわけじゃない。意志だ。私の意志の弱さがそうさせる。それでも満足してしまうのだから私という人間の器の小ささが知れるというものだ。
「である本」は「である本」たる理由がある。好きな作家、シリーズ、話題の、映画化される、借りパクされた、読まずに食べた、エトセトラ…。一方の「でない本」は当たり前だが前情報がゼロなわけで、読んで面白い場合、期待値がなかった分「出会ったな」と思う。折に触れて「である」よりも「でない」に意味がある。もちろん、チャーハン食べた帰り道、「やっぱラーメン食べたかったな。というか、ラーメンに半チャーハンでもよかったな」と背中を丸めることもしばしば。正々堂々「である」に浸るというのも人生には必要だ。
先日、とあるデザイナーの人と打ち合わせがあった。その人のアトリエにお邪魔した時、そこの本棚があれ、これ、俺んちの本棚か?…と思うくらい自室の本棚に似ていた。
「この本、ウチにあります」「あ、これ私が装丁デザインしたんです」「あ、これも」「あ、これもね、装丁は…」「へえ。え、これは?」「そうですね。やりました」
そのどれもが装丁買いをした「でない本」の数々であった。別に、本の装丁の打ち合わせではなかったので、まぁ、そういう意味では想定外の出会いだった。という小噺。お気に召しませ。