これは…パイプ…ではない?

立ちションはアートになりうるのか。
ここにグラフィックアーティストのバンクシーに憧れる気鋭の芸術家がいる。
名はション・ベンクシー。ベンクシーは電気羊の夢を見るか?見ない。
バンクシーとベンクシーの共通点は多い。
どちらも男性の可能性がある点、表現が迷惑行為すれすれである点、そして、二人とも作品を壁にかける点。
冒頭の問いは結論から言えば、世間から認められたベンクシーの行う立ちションアートのみアートであり、それ以外の立ちションは当たり前のように軽犯罪になる。
事実にもしもはないけれど、もしもバンクシーが世の中的に認められていなかったら?
「あの人、やたら世界中でアイロニカルないたずら描き残すよね…」と近所の奥様方から後ろ指さされるバンクシーを想像するに難くない。築地に残した作品を、都知事が市松模様のポンチョを着てまで見に行くか?そもそも、そんな話は彼女の耳に届かないだろう。まぁ、彼女の耳に届かないのは都民の声もそうだ。
しかし、実際のバンクシーの場合は「あの人、やたら世界中でアイロニカルないたずら描き残すよね〜!」と賞賛されているので、聡い彼女はポンチョ着る。
「あの都知事が?着たくもないポンチョまで着て?」
話題が話題を呼ぶ。
…となると、である。
頑張れベンクシーと思うのは私だけであろうか。
一晩にして横6メートル・高さ9メートルくらいの「頂き女子・りりちゃん」を写実的に描いた絵が歌舞伎町のTOHOビルの壁面に急遽現れる。まず「どうしてそんなに出るのよ」というのが疑問だが、そこはション・ベンクシーがションベン駆使して責任もってやると言っているのだから温かく見守ろうじゃないか。
偶然現場に居合わせたトー横キッズたちから「男だった」「いや、女だった」「一人だった」「いや、グループだった」と色々な声があがるが、多くの大人はまぁマトモに聞きませんわな。
「へぇ…。で、ちゃんと学校は行ってるの?」とか雑な返しをされるわけです。
「いや、ですからこれは、トー横を“巣食う”子供たちが決して自然発生したわけではなくて、身寄り頼りがない子供たちが自らで生き延びる為の最終手段として選んだ道を一方的に批判するばかりか、ある種ワイドショーのコンテンツ的に持ち上げている我々に対するアンチテーゼなのです」
津田大介的な人がかようなことを言って初めてベンクシーがアーティストに、正しくはベンクシーの表現がアートになる。
「あの都知事が?来たくもないトー横まで来て?」
そんなこんなで話題が話題を呼ぶ。…となると、である。
結局「誰の何がアートになるか」とは「誰が何をアートとするか」であるわけで。
アートならざる立ちションはアートにあらずなので、みなさん立ちションはやめましょう。

五月、雨のペーソス

某日―
色々と書かなきゃいけないことが増えていて、一方で書けないこともあり、じゃあこの「書けないことは書かない日記」で何を書くべくなのかと最近思う。
そりゃあ、書けることだけを書けばいいのかもしれないが、書けることだけ書いたって日記としては味がなく、後から見返して「このとき裏では全く書けないこと起きていたんだよな」くらいのペーソスを入れておきたい。そのせめぎ合いである。

某日―
大学時代の友人の結婚式に出席するため軽井沢へ。
新郎側の友人代表スピーチを任されている。出順は「新郎による乾杯の挨拶」の次なので、そこそこ盛り上げなきゃいけないわけである。
まず不謹慎なことは言えない。そもそも「不謹慎とおちんちんって似てますよね。語感が」とか平気でいうタイプの男になぜ彼は任せたのだろうか。式を台無しにされたいのだろうか。多くの人にとって一生で一度の、まぁ、人によっては違う人もいるが、結婚式でそういう博打感を楽しみたかったのだろうか。結婚式界の一平か。なら俺は翔平のような広い肩幅と心で臨めばいいのか。
そんなこんなで台本を書いたり、稽古をしたり、一回全てを忘れて書き直したりしているうちに当日になってしまった。
本番のツカミは上々、笑いが欲しいところではきちんと笑いが起きた。
調子にのって色々と脱線したら、尺が5分のところ10分になり、若干後半が失速した。いや、失速したのではない。次の新婦側のスピーチが程よい温度で始まるように調整したのだ。
終わった後、ワインを飲みながらスピーチャーズハイになっていた私の方が一平だったのかもしれない、むしろ翔平のような広い胸板と心を持っていたのは新郎だったのかもしれないと思った。
そして、フレンドシップを表現する際に、一平と翔平の話をするべきではない、とも。

某日―
アメ横近くのルノワールで本なんかを読んでいると、アプリで出会ったらしき初めましての男女が極めて金銭が発生しているだろう距離感で攻防戦をしている。
トイレに行くと、酔っ払っているのか排尿に痛みが伴うのか分からないけど、「タタンッ!タタンッ!」パーカッションみたいな奇声を出しながらションベンしているおっさんがいる。
結構イカツイ方がイカツイ話をイカツイ声量で話し合っていて、あっちのテーブルの声がでかいから、こっちのテーブルも自ずと声がでかくなり、ドルビーサウンドシステムでヤクザ映画を見ている気持ちになる。
要するに、例のアメ横飲食店の経営者の事件が起こるに「さもありなん」の土壌がある。

ラジオコント、始めました

某日―
わざわざここに書くまでもない個人的な、きわめて個人的な日記を書いているのだけれど、どうも自分には向かないらしい。
というのも、一月は頑張って一日一日書いていたが、二月で一週間のまとめに、三月には一か月のまとめになり、四月いたってはとうとう書かなかくなった。徐々に減っているのである。
このままだと、五月はマイナスだろう。
マイナスというのは、何も「あれがうまくいかない。これがうまくいかない。みんなこの世から消えればいい」という中身の話ではなくて、つまりは遡ることであり、五月一日には四月の晦日のこと、五月二日には四月二十九日のこと…と書いていくことである。
となると、五月が終わるころには、私は四月分の借金ならぬ借日を完済していることになる。なんなら、五月は31日あるので、三月分の未書分を一日返済できていることになる。
おお。やるじゃんおれ。やればできるじゃん。
へへん、と鼻を鳴らす頃、五月の日記が一日もないことに気が付く。
でまぁ、そうやって三月分、二月分と返済しているうちに、五月分、六月分とたまっていき、綺麗な体になった七月にはうんうんと六月の晦日から今日までの記憶をたどり辿って…。
私に向いていないもの。借金そしてリボ払い。

某日―
わざわざここに書くまでもないこの「書けないことは書かない日記」を書き続けて10年数年あるが、これだけネタがあるんだから何かにならないか…と去年くらいから思っていた。
前々からラジオコントをやりたいと思っていて、それに向けて書き溜めていたネタがあり、「ならやってみるか」という話になり今回収録してみた。
題して『愚痴拾遺物語』。宇治に限らず全国津々浦々で聞いた愚痴をコントにしようという試みだ。
その第一話はこちらから。

お時間ある方はぜひ聞いてみてください。
ちなみに、元ネタはこちらです。